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地域史講座スタート

6月30日(木)

ブログの更新をサボッている間に、6月も今日で最後になりました。
毎日蒸し暑い日が続いておりますが、みなさまお元気にお過ごしでしょうか?

今月の23日(木)に今年度の地域史講座がスタートしました。
年5回の地域史講座は、毎年受講される方も多く、みなさん地域史を学びたい意欲満々の方ばかりです!

第1回目の講座は、講師:立石公民館長 石橋 満弥氏による
《 郷土の史実と史話 「大内城館とその背景」》 でした。

立石地区の方のみならず、朝倉市にお住まいの方はでしたら、とても興味ある内容でした。
石橋氏が準備して下さった資料からご紹介いたします。

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郷土の史実や史話  ~大内城館とその背景~


1.戦時中の大内町
 昔は、今の恵比寿町は後町と呼ばれていました。甘木小学校の北側もその後町の一部でした。
戦後、そこに家が建ち人々が住むようになり、後町は恵比寿町と町名が変わりましたが、甘木小学校の北側は恵比寿町と別れ、大内町となりました

2.どうして大内町?
 戦国時代、長門・周防・豊前と筑前の守護大名であった大内義隆の城館があったことから、その名前がつきました。また、その城館が無くなったのは、部下の陶晴賢の下剋上に原因がありました。

3.大内氏の筑前支配と甘木
 京都を焼け野原した足利氏の将軍の跡目争いを主な原因とした応仁の乱。この時の東軍の総大将は細川勝元>、西軍の総大将は山名宗全でしたが、二人とも応仁の乱の最中に亡くなりました。そこで西軍の中心人物として活動したのが、大内家第27代大内政弘でした。
 大内氏が西軍についたのは、周防・長門・豊前・筑前の守護であり、博多商人と結ぶ大内氏と、大阪泉州堺の商人と結ぶ細川氏利害関係が最大の原因だったのです。将軍足利義光を戴いた東軍は、幕府の名の下に諸国に幕府方に刃向う者、即ち西軍を討伐するようにと下知をとばしました。
 この下知に応じたのが、九州でもともと勢力を持ち、大内氏の九州進出を嫌う少弐氏・相良氏・島津氏・大友氏・菊池氏などですが、秋月氏は大内方につき、少弐氏を攻めたと言われています。また大内政弘に従って京都にのぼったものの中にも秋月氏の名が見えます。

 京都で長期にわたる対陣の中で、守護大名たちは自分の国の中で不穏な動きをする守護代や士豪たちの動きにも気を配らねばなりませんでした。大内政弘も例外ではなく、守護代や士豪の不穏な動きを抱えていましたので、東軍である幕府方から官位をもらうことによって、名誉ある?帰国であると吹聴したのです。(秋月氏は、この名誉ある?帰国に対して、お祝いに太刀千疋を献上しています。)
 帰国した大内政弘は、少弐・大友によって蹂躙された豊前・筑前国の建て直しをはかりました。この時秋月氏は、大内政弘に、肥前の小城城の少弐一族攻めを命じられるのですが、援軍を要請した秋月氏の願いは聞き入られず、手勢を用いて小城攻めを行うのです。このことからも秋月氏は既に大内氏に隷属化していたと云えると思います。

 大内政弘は、長い帯陣の間に京都の文化に触れ、遂にはその虜となり、生活様式も公家化への道を進み始めるのです。

 九州進出を狙う大内氏にとって、山陰に勢力を持つ守護である尼子氏に、背後を突かれる恐れがありましたので、第28代大内義興尼子経久を攻めますが、成果をあげることなく亡くなりましたので、義興の子、義隆が22歳で家督を継ぎました。

 義隆が家督を継いだ頃は、大内氏の中に公家文化が浸透していたとはいえ、後に下剋上によって大内義隆を倒した陶晴賢の父晴房をはじめ、まだまだ武断派が義隆を補佐し、家臣に跡目争いによる分裂や逆臣の出現を許しませんでした。
 家督を継いだ義隆も父義興の遺志を継ぎ、少弐討滅へ力を注ぐのですが、少弐氏は大友氏と同盟を結び反抗しましたので、徹底的に少弐氏を追い詰め、また大友氏への備えとして1530年 享禄3年に甘木に城館を建てました。

 ところが大内義隆は、桁はずれな出世欲と男色好み武断派よりも文人派を重宝するという面が強く、このことが大内義隆の命取りとなり、大内家滅亡の原因となるのです。

4.大内家滅亡の原因
 第28代大内義興・第29代義隆も、第27代政弘に劣らず、京都文化の摂取に熱心でした。
 特に第29代大内義隆は、歌道・儒学・神道・仏学・漢詩・管弦・能楽など、学問や芸能などのあらゆる分野に通じ、戦国大名の中では一番の文化人で、その力量は公家にも負けず劣らずの持ち主でした。
 従って、京都文化をそのまま映したと言われる西の京(山口)には、京都をはじめ全国から文化人が集まってきました。
 大内義隆は、それらの人々に多額の費用をかけて接待し、また上位の官位とその官位の利権が欲しく、朝廷や公家に次々と莫大な献金をし、1542年遂に従二位まで上りつめました。
 しかし、このような文化人への接待と朝廷や公家への献金によって財政がひっぱくし、重税にあえぐ領民の間では、不満が増大していきました。
 それでも箱崎宮や宗像大社、香椎宮や天満宮などに多額の奉納寄進を行いましたので、これらのことにより、対明貿易や対朝鮮貿易で築いた巨大な富も無くなり、領民には度重なる臨時の重税を課したため、領民の不満はますます増大していきました。
 もちろん、大内義隆が家督を継いだ時、補佐をしていた陶晴房をはじめ、武断派の諸将はことあるごとに諫言しましたが、義隆は聞く耳を持たず、武断派を遠ざけ、大内家には縁もゆかりもない文人派を重用していきました。

 国内がまさに末期的な症状を呈している時、天文12年山陰の尼子晴久との戦いに大敗した義隆は、武事を忘れ、公家の生活や文化人の接待、献金によってより上位の官位へと、のめりこんでいきました。

5.陶晴賢のクーデター
 大内義隆が家督を継いだ時、強く補佐をしていた陶晴房の子晴賢は、このような状況を打破し、国の安泰を図るには、義隆を討ち、文人派を一掃するほかない下剋上によって義隆を討つことに成功しました。主君を討ち、国をとる下剋上の世の中の不忠者で悪人の代表のように言われてきた陶晴賢は国の建て直しを図った立役者であったかもしれません。
 しかし、大内家の中には、主君義隆を討ったことは「臣」としての道に反するとして、毛利氏に討たれることになり、周防・長門は毛利氏の勢力下に置かれるようになっていきます。
 このことは本能寺の変によって織田信長が明智光秀によって討たれ、明智光秀は主君の仇と羽柴秀吉によって討たれたのと同じといえるかもしれません。

6.甘木の大内城館
 第29代で家督を継いだ大内義隆は、九州進出を狙い、少弐氏を討とうと軍を進めてきましたが、少弐氏は豊後の大友氏と同盟を結び、徹底抗戦を図りましたので、西の少弐氏、東の大友氏に対抗するために、九州路(肥前や肥後、筑後から秋月、八丁超え、大隈、豊前への道)と豊後路(那の津から太宰府、日田、豊後府中への道)が交差する交通の要地である甘木を九州進出の拠点とし、現在の大内町から甘木小学校一帯にかけて城館を築いたのです。
 城館は、大濠や城壁、天守などの外観的な威容は見られませんでしたが、外柵や陣屋などはとても堅固であったといわれています。初代の城主大内義明は義隆の命を受けて、少弐氏や大友氏によって荒らされたこの地の商人の保護や商品の流通、価格の安定などの仕組みなどの機能の回復や、甘木川の治水を手掛けました。また人心を安らげようと、聖僧 法光上人を迎えて寺院(光照寺)を熊野大社から神霊を勧請して権現社を建てました。これらのことによって、甘木の市場は回復、繁盛し、とくに城館付近は店が軒を並べるような盛況さを呈したといわれています。
 ところが、1551年(天文20年)、陶晴賢のクーデターによって、大内義隆が討たれたため甘木大内城も全軍引き揚げとなりました。
 残された光照寺や権現社の霊城は年月が経つとともに竹藪に覆われ、光照寺は現在の場所(甘木小学校の南、九州電力の東)に、権現社は現在の保健所の入口にこんもり茂る楠の木のところに移され、甘木大内城の形見として残っています。当時の大内城館の門前に住んでいた人達も今の権現社の近くに移り住み、後に町名を横内町としたと伝えられています。
また、光照寺のご住職は「大内さん」です。

7.安見ケ城の戦いへ
 大内氏をクーデターによって倒した陶氏も毛利氏に討たれ、その後 秋月氏は大友氏につくのですが、反旗を翻し毛利方につき、大友氏の攻撃をうけ、安見ケ城の戦いとなっていくのです。

主な参考文献
九州戦国史       吉永正春著
甘木市史        甘木市史編纂実行委員会
甘木雑記(甘木大内城跡)朝倉新聞切り抜きより
資料作成:地域史の講師をしていただいた石橋 満弥氏


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いかがでしたか? 
頷きながら読まれている朝倉市民のみなさまが、きっと大勢いらっしゃることだと思います。


町名にも歴史があるようです。
ひとつひとつを紐解いていく地道な作業を、楽しそうにすすめていかれる石橋氏。
きっとまた新たな地域史を語ってくださることだと思います。

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次回の地域史講座は8月25日(木)です。


梅雨明けは、まだ先になりそうですが この暑さは今からが本番・・・。
みなさま体調を崩されませんように。
水分の補給と適度な休憩をお忘れなく 
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by tateishikou | 2011-06-30 09:57 | ☆地域史講座 | Trackback | Comments(0)

立石公民館 エネルギー使用量削減中!

6月13日(月)

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◆◆《ダンスパーティー》という名前の紫陽花です

週末からの大雨で、災害の心配もありましたが、雨が止み一安心です。


東日本大震災から3カ月が経ちました。
大震災の被害と福島原発の被害とで、東北地方の方々にとって未だに大変な状況は変わっておりません。

現在、公民館で義援金のご協力もしていただいておりますが、他にも私たちに出来ることがあります。
エネルギーの使用量の削減です。

梅雨が明けると、夏場の電力不足が懸念されています。
朝倉市役所でも、いろいろな方法で省エネに取り組まれているようです。
各公民館やコミュニティ事務所でも実施可能な取り組みに協力するようにとのお達しがまいりました。

さっそく、柴山館長が館内の照明(蛍光管)の間引きを行いました!

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◆◆玄関は50%off
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各部屋20%offです。
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◆◆大研修室も・・・
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◆◆和室も・・・
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◆◆小会議室も・・・

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◆◆薄暗い事務室に柴山館長が・・・
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◆◆事務室は67%off

「事務スペース照明の間引きについては、事務に支障がでない範囲でお願いします。」と書いていただろう!・・・と思われていますね 小川さん。
大丈夫です。事務に支障がない範囲で節電しておりますからご安心ください。


間引かれた電灯の山。
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◆◆来館者のみなさんへお知らせ
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◆◆お花の隣に「お願い」を立てると柔らかく伝わるような・・・

空調につきましても、室温28℃に設定させていただいております。
来館者のみなさまも、気持ちよくご協力いただけているようです。

立石公民館の取り組みは、今日現在こんなところです 小川さん

みなさんもご家庭で出来る省エネ(節電&CO2排出量削減)を行い、電力不足にならないように取り組みましょう。
小さなことの積み重ねが、大きな力に変わるはずです。

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◆◆お花は(株)いすやサンに頂きました(上の紫陽花も) いつも綺麗なお花をありがとうございます


 ◇◆朝倉市 立石公民館◆◇

  〒838-0064
  福岡県朝倉市頓田205-1
■TEL・FAX  (0946)22-2101
■e-mail    tateishikou@city.asakura.lg.jp
                                      
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by tateishikou | 2011-06-13 12:17 | ★その他 | Trackback | Comments(0)

6月9日成人学級

6月9日(木)

今日の成人学級は、
『人権講座 「世界の中のあなたとわたし」 』 
講師にAIM(国際ボランティアを育てる会)代表 里川 径一(さとがわ みちひと)氏をお招きして、楽しい講座をしていただきました!
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どこかで聞いたことがあるお名前・・・と思われた方、このブログをご覧いただいてますね 

まずは、講師のご紹介から。
里川氏は、いくつもの顔をお持ちです!
朝倉市教育委員会 生涯学習課 地域活動指導員(これが本職かと思われます)
AIM(国際ボランティアを育てる会)代表 
立石けん玉道場の指導者


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AIM 国際ボランティアを育てる会とは?
--(AIMの紹介文より抜粋)--
 AIMとは英名“Appropriate Technologies International Movement”の頭文字をとった略称で、「適正技術の国際的推進運動を行うNGO」です。ここでいう「適正技術」とは、その土地で手に入る材料を使って現地の人々によってその後の維持管理が容易に行われ得る技術のことを言います。私たちは人類にとって必要不可欠な「水」をテーマとし、水車技術を通したアジア・アフリカ方面への技術協力に取り組んでいます。
 なぜ今「適正技術」なのでしょうか。例えば、これまで先進国から技術援助ということでトラクターやポンプなどが送られ、そのための技術者も送られました。しかしトラクターやポンプなどの仕組みが難しく、故障したときに現地の人々では直せないのです。仮に現地の人々がその技術を習得したとしても、その材料も容易に手に入るものではなく、逆にお金がかかってしまうのです。技術者が国へ帰った後、故障した多くのトラクターやポンプなどが放置されているのを実際に見かけたこともあります。私たちはそうした現状を踏まえ、日本国内の放置自転車を材料に、カンボジアの伝統水車である竜骨水車に倣って改良を加えた「自転車竜骨水車」の完成に漕ぎ着けました。
 また国内においては、水車の制作活動等の現場を子どもたちの健全育成の場に活用していくため、地域の学校や子ども会、さらには引きこもりや不登校の子どもたちにも門戸を開いた展開を模索しています。そこで現在、ネイチャーゲームなどを取り入れた自然に親しむ活動を中心に「水の学校」を始めています。6月には初の泊りがけで多くの子どもたちと蛍狩りを楽しみました。蛍を通して自然のことについて、子どもたちと一緒になって考えたりもしました。
 このAIMという単語には「目的とする」という意味がありますが、私たちは単なる技術の専門家になるのではなく、これからの社会に相応しい「人を育てる」ということに第一の目的をおいています。その目的を表明するために私たちは、日本名を「国際ボランティアを育てる会」と命名し、山青く水清き九州甘木の山懐、人情厚き高木・黒川の地に事務所を構え、地元の人々と共に活動をしています。

AIM(国際ボランティアを育てる会)代表 里川径一
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コチラもどうぞ。
HP:AIM国際ボランティアを育てる会
BlogAIM国際ボランティアを育てる会“活動劇場”


今日の里川サンは、AIM代表の顔の里川サンです。
里川サンが、カンボジア等でAIMの活動をされている中から見えてきた世の中の矛盾や問題点を、「人権講座」という文字に身構え、緊張気味に参加されていた受講生のみなさんの予想を裏切る形で、“ 楽しく ”展開していただきました。 
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◆◆きっと固い話が始まるのよ・・・と身構えるみなさん

今回の成人学級の様子は、川端 主事からの報告です!


まず、“ カンボジアのイメージは? ”からのスタートです。
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戦争・地雷・農業
学校や教育が・・・ 子どもが働いている
アンコールワット
自転車が多い

人権教育のイメージ
マイナスイメージから始まってしまうから・・・・⇔平和教育


さて、ここでクイズです。
世界の人口は何人?
現在→2010年 63億人 
過去→1950年 25億人
未来→2050年 93億人(人口爆発が)

食糧問題や 地球温暖化など心配なことばかり心に浮かびます・・・

ここでカードを配って『世界がもしも100人の村だったら?』という形式でワークショップです。
※ご参考までに※
朝倉市 生涯学習課 講演会
「世界がもし100人の村だったら あなたもここに生きています」



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◆◆何が始まるのかしら・・・
あなたは、カードの人です。
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男の人or女の人
子どもor大人(orそのうちの高齢者)
何語を使っているの?
住んでいる地域は?
食糧事情は?


富の配分をしてみよう

(ジュース4ℓ)2.3 ℓ1.6ℓ0.1ℓに分ける
(飴50個)41個8個1個に分ける

ここにいる26人(本日の受講生の数)のうち 
5人の裕福な人達・・・ジュース2.3ℓと飴41個
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◆◆ラッキー
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◆◆食べきれないわ~
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◆◆飲みきれないわ~

16人の普通(?)の人達・・・・ジュース1.6ℓと飴8個
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◆◆普通で良かった!
 

5人の貧しい人達・・・・ジュース0.1ℓと飴1個
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◆◆これだけ?分けてよ~
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ジュースと飴を世界中の富に見立てて、今この世界でどのように富が分けられているかを実感していただきました。
富裕層の人達は、コップに並々とジュースをついでも、まだボトルには大量のジュースが残りますし、僅か5人で41個もの飴を分けることができます。
普通の人?という中間層の人達でも、コップにジュースが半分にも満たない状態ですし、16人で8個の飴しかありません。
貧困層の人達は、5人でジュースが100cc!飴も5人で1個です。
このわずかな富を、この人数で分け合わないといけない状況だという事でした。


今日のPONT
自分の固定観念の中のいらないものを外して
近づいて行ってみる


[人権]とう言葉への先入観もそうです。
まずは、近づいていってみましょう!
自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分で判断しましょう。
固定観念を一度捨てて、事実をみつめてみましょう。
あなたの目に“ 現実”は どう映っていますか?


里川サンから素敵な言葉を教えていただきました。
「イランカラプテ」
アイヌ語で「こんにちは。」

“あなたの心に そっと触れさせてください”
という意味です。
i (それ/あなた) ram(心) karap (触れる) te(~させて)
※もう少し詳しく知りたいな・・という方はコチラもご一読を



最後に、この言葉で締めくくられました。

“世界全体が幸福にならない限り 個人の幸福はありえない”
宮沢賢治「農民芸術概論」



終了後の受講生のみなさんは、今日の講話に大満足でお帰りになりました。

そうそう。
里川サンのもう一つの顔。
可愛い女の子のパパ
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里川サン 今日はありがとうございました。
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by tateishikou | 2011-06-09 21:57 | ★成人学級 | Trackback | Comments(0)

立石再発見ウォーク ★柿原地区編

6月6日(月)

暑い週明けになりました。
みなさま お暑うございます・・・。

さて本日は昨日の続きで、立石再発見ウォーク後編:柿原地区編です。

相窪地区から導者道を通って、柿原を目指しました。
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◆◆歩いて
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◆◆歩くいて~ひたすら 歩く・・・
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◆◆お孫さんと手をつないで

ウォーキングの時に、いつも休息場所としてお借りしている《 ぎんなんの森 》さんに到着!
ぎんなんの森サンいつもありがとうございます。
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さぁ 柿原に出発です!!
最初に訪れたのは、柿原天満宮
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★柿原天満宮とは・・・・
柿原区の氏神様である菅原道真を祀ってあります。
菅原道真(845~903)は、代々学者の家筋に生まれ、小さい頃から文才に優れ18歳で当時の国家公務員試験の下級職(進士)に、23歳で上級職(秀才)に合格し、55歳で右大臣に昇り詰めました。
ところが、道真の出世が時の権力者である藤原氏の反発をかい、大宰府へ左遷されてしまいました、
「東風吹かば にほひをこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」という都を去るときの一首は有名です。
大宰府に赴任して二年後、無念の思いを残しつつ亡くなりました。
(道真没後の三年目、門弟によって、その墓所に建てられたのが太宰府天満宮です)
学問・文筆の神としての信仰が広がったのは、江戸時代に寺子屋が盛んになった頃からです。
当時、寺子屋には必ず天神様の尊像が掲げられ、正月の初天神には保護者の学習参観が行なわれましたし、毎月25日の縁日には近くの天神様へお参りすることが恒例になっていました。このことが受験合格のご利益信仰のはしりのようです。
農業守護、病気平癒のご神徳もあるといわれています。


昼食は、柿原地区の青井区会長サンのご好意で柿原公民館を貸していただきました。

暑い中を探索され疲れて到着された参加者のみなさんは、ようやく座ってゆっくり出来る!と喜んでありました。
いつものおにぎりですが、公民館の中を気持ちの良い風が吹き、美味しくいただくことが出来ました
青井区会長サン、みなさん口々に「綺麗な公民館ね~」と褒めてありましたよ。
柿原区民の私も鼻が高いです。  ですよね 和佐野サン!

青井区会長サンありがとうございました。
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◆◆暑くてお疲れ気味のみなさま・・・

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◆◆おにぎりと冷たいお茶でリフレッシュして出発

午後は、高住神社・椀貸古墳です。

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★豊 前 坊 さ ま (高住神社)とは・・・
椀貸し古墳のすぐそばにあるお宮で、祭神は別名天忍穂耳命です。
祭神の天忍穂耳命は、天照大神の長子で、天孫降臨の主役瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の父親にあたります。
名前の中の「ホ」は稲穂のことで、「ミミ」は実をいっぱいつけて頭をたれる稲穂を表し、立派に実った大きな稲穂を称える気もちがこめられた名前だそうです。
神話によると、天照大神から最初に地上へ降臨を命じられたのは天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)だそうですが、生まれたばかりの息子の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と交代されたということです。
そのことは、生まれたばかりの赤ん坊は無垢で、霊的な世界に属する存在であり、赤ん坊には未来があり、可能性を孕んでいると言う日本古来の観念から、「天降る若々しい稲霊(いなだま)」と考えると交代の理由も納得できそうです。
農業、工業、鉱山の守護神として信仰されていますが、勝運、招福、家門繁栄、商売繁盛、就職、結婚、厄除け、病気平癒など諸願成就にも霊験あらたかだそうです。
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◆◆椀貸し古墳
★椀貸し古墳とは・・・・
柿原の原というところにある前方後円墳です。
昔、この村の人々のくらしは貧しく、お客に出すお椀やお膳さえ持っていませんでした。お客があると村人は、
洞穴(古墳)の入り口で「お椀やお膳など、○人前貸してください」と、お願いをしました。
すると当日には、その入り口の所にお願いをしたとおり、お椀やお膳などが揃えてありました。用が済むとお礼をいい、元どおりに戻しておくと、いつのまにか片付けられていました。
ある日のこと、ひとりの若者が、誰が片付けているのだろうかと木陰に隠れて見ていました。
すると、長い髪を垂らした女の人が穴から首を出し、お椀やお膳を取り込もうとしました。
見ていた若者は物陰から飛び出し、女の人に走り寄りましたが、女の人はすばやく穴の中に身を隠してしまいました。
そのことがあってからは、村人がどんなにお願いをしても、お椀やお膳を貸してくれなくなりました。




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◆◆熱心に説明を聞かれてました

この2カ所で、今回の立石再発見ウォークは終了です。
さぁ頑張って立石公民館に戻りましょう!


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◆◆お疲れ様でした




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暑い1日になりましたが、脱落する人もなく無事に終了することができました。

暑い中 説明をしていただいた石橋氏、参加者のみなさま、そして今回のウォークにご協力くださったみなさま方、本当にありがとうございました。
原野サンも写真撮影お疲れ様でした。
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by tateishikou | 2011-06-06 16:49 | ☆再発見ウォーク | Trackback | Comments(0)

立石再発見ウォーク ☆相窪地区編

6月5日(日)

雨の日曜日、みなさまいかがお過ごしでしょうか?

昨日の土曜日に、立石地区健康づくり推進委員会・立石公民館 主催
《 立石再発見ウォーク 》を行い45名のみなさんと、
相窪地区~柿原地区を回りました。

今日はその前編:相窪地区コースをご紹介いたします。

説明は、Mr.立石再発見 立石公民館長の石橋満弥氏にお願いしました。
豊富な知識と資料をお持ちですので、本当に勉強になります!

今回のコースは約6.5km
公民館  橋本家 相窪灌水池 天(田)神社  鬼松天神  導者道を通って 新池の跡  ぎんなんの森(休憩)  柿原天満宮 柿原公民館(昼食) 椀貸し古墳、高住神社 公民館

  

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◆◆健康づくり推進委員会会長でもある柴山館長からの説明


まずは、今回通る予定の“ 導者道(どうじゃみち) ”の説明を兼ねて、立石公民館から見える英彦山を・・・という予定でしたが、あいにく雲に覆われて英彦山が見えませんでした・・・。
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◆◆英彦山が見えない・・・

えっ? その前に導者道が何かがわからない???

★導者道とは・・
英彦山詣りの人を「彦山導者」といい、通っていた道を導彦道と呼んでいました。「どうじゃみち」が正しいのでしょうが、朝倉地方では「どじゃみち」とか「どしゃみち」と言っていました。

~石橋氏 資料より~


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◆◆英彦山ガラガラを手に説明中の石橋氏


☆英彦山ガラガラとは・・・
神の宿る崇高な山として、今だ多くの人々が訪れる修験道の地・英彦山。添田町で生まれた「英彦山がらがら」は、国内で最古の土鈴と言われています。文武天皇(飛鳥時代)が英彦山に奉納した鈴が由来とされ、戦乱の際に守るために土に埋めた鈴の複製を、肥前中原の城主が作り、のちに参拝者に分けたのがはじまりだとされています。現在では、英彦山来訪のお土産として広く知られていますが、家の玄関や門前に飾られる魔よけや田畑の水口(みなくち)に埋め、災害を避けるためのお守りとして現代に受け継がれています。


さぁ出発!
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橋本邸を目指します。
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橋本家は、江戸時代までの庄屋さんでした。
筑前竹槍一揆の際に出来た、竹槍の跡が残されているお家を見せていただきました。
そして、相窪地区の橋本家は相窪地区のみならず、立石地区の発展に大きく貢献された橋本 郁太郎氏の話を外すことは出来ません。
朝倉市HPふるさと人物誌でも紹介されていますので、是非ご覧ください。

お邪魔した橋本家の橋本菊枝氏から橋本郁太郎氏に関する貴重な資料を多数提供していただきました。
それを石橋満弥氏が編集された今回の立石再発見ウォークの資料は、立石地区の人達に是非知ってもらいたい、そしてこれから先に残してもらいたい大切な資料になりました。

橋本郁太郎氏の記念碑は、立石村役場(現:西日本警備)から元の立石公民館(現:朝倉医師会看護学校西門付近)に移設され、公民館移転に伴い生家に再建されました。
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橋本郁太郎氏の略歴や記念碑の碑文など詳しく説明をしていただいて、次は相窪の潅水機へ。
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◆◆相窪潅水機
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以下 資料は全て石橋満弥氏提供のものです

★相窪の潅水機とは・・・ 
相窪の土地は佐田川の川底よりも高く、水は伏流水となって地下を流れるため、明治30年(1900)ごろまでは粟や大豆、サトウキビ、タバコが主な作物でした。
国道386号線の北側も南側も殆どが櫨(はぜ)畑か草きり場、または荒地か林で、田は3ha位しかなく、用水は三奈木の長畑(ちょうばたけ)の落とし水と、新池と呼ばれた小さな池の少量の水に頼っていましたので、米飯は祭りと正月だけで、ふだんは粟のボロボロ飯か麦飯というくらしでした。
明治36年の大干ばつの時は田ごとに井戸を掘り、ハネ釣瓶(はねつるべ)で何日も何日も水をかけましたが稲を枯らしてしまいました。
「米がとれる田が欲しい」これが相窪の人たちの願いでした。
皆で相談をしたり、いろいろな作業もしたりしましたが、何一つ成功しませんでした。
しかし、あるとき相窪で火災があり、井戸に手押しポンプをつけて消火にあたりました。ところが水は枯れることなく次々と水が出てきました。
「相窪の地下には水がたくさんあるに違いない」と気づいた村長の橋本郁太郎氏は、地下水を利用する方法はないものかと考えました。
アメリカ帰りの弟・義夫氏(工学博士)に相談し、発動機を用いて揚水したらどうかということになりまた。
当時、発動機を見たものはなく、義夫氏が設計し、博多で造らせました。
相窪の老いも若きも、男も女も一生懸命がんばりました。発動機の土台となる煉瓦は牛に車力を引かせ、何度も久留米の宮の陣から運びました。
いよいよ完成の日、相窪の人たちが固唾をのんで見守る中、発動機の大きな音(安川橋まで聞こえたという)とともに、勢いよく水が噴出し、水路を流れる様を見て、人々はみな歓声を上げ感動のあまり涙ぐむものさえいたということです。        
完成後、相窪は機械で水を揚げ田にひいているそうだという話が広がり、見学者が絶えなかったということです。


次は、天(田)神社へ。
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★天(田)神社(「てん」あるいは「でん」)とは・・・
相窪の氏神様である『埴安(はにやす)の神』を祀ってあります。
『埴(はに)』とは、神聖な力をもったキメの細かい黄色がかった赤色の粘土のことで、『埴安(はにやす)の神』とは、祭事に用いる陶器つくる材料としての神聖な土の神様のことです。
太陽や月や地球ができ始めたころ、高天原(たかまがはら)に様々な神様があらわれました。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)という神様もいました。
二人は国を造り、次々と子どもを生みました。
最後に火の神様『火之迦具土(ひのかぐつちの)神』を生み、大やけどを負い、病に伏しているとき、その尿から『波邇夜須毘古神(はにやすびこのかみ)』と『波邇夜須毘売(はにやすびめの)神』が生まれたと古事記に記されています。
また、日本書紀には伊弉冉尊(いざなみのみこと)が亡くなろうとする時、土神埴山姫(はにやまひめの)神と水神弥都波能売(みずはのめの)神を生みました。
この神の頭上に桑と蚕、へその中に五穀が生じたと記されています。
土と水、さらに火を加えて祀りに使う土器がつくられ、その土器を用いてこそ豊かな実りがあると信仰されていた時代、神聖な土『埴(はに)』には呪力(じゅりょく)があると考えられ、特に大和(やまと)の国(奈良県)の香具山(かぐやま)の埴(はに)は、[国魂(くにみたま)(国土を経営する神様)]がこもる土、[物実(ものざね)(もののもととなるもの/野菜や草木の種の意味)]と信仰されていました。
神武天皇が大和を平定する折、二人の付き人が敵中から具山(かぐやま)の埴(はに)を持ち帰り、土器を焼き、天神地神(てんじんちじん)を祭り、勝利を得たと日本書紀にあります。
また『埴安(はにやす)の神』は田の畔(あぜ)や川の土手などに守護神として祀られました。
このことから単に土の神というだけでなく、作物の実りをもたらす神でもあるといわれています。
そのためこの神様は、登由宇気(とようけの)神と一緒に祀られていることが多いそうです。
他に、鎮火(ひしずめ)の神としての霊力があるともいわれています。


続いて鬼松天神

★鬼松天神とは・・・
昔、豊後の国の日田に鬼大夫(おにたいふ)大蔵永季(おおくらながすえ)という武芸に優れた上に、たいそう力の強い人がいました。
京都の御所で開かれる天覧相撲に出場することになった鬼大夫(おにたいふ)は、筑紫路を通って大宰府天満宮で必勝祈願をしようと思い、大根川(佐田川)のほとりにやってきたとき美しい品のある娘が大根を洗っているのに出会いました。
鬼大夫は娘に大根を所望し、受け取る時に、娘の手を握ろうとしました。
その途端、娘は鬼大夫(おにたいふ)の腕をねじ上げてしまいました。
その力の強いこと、力自慢の鬼大夫でもどうすることもできませんでした。
娘は、「天覧相撲に出る身であり、天満宮にお参りに行く身でありながら、何というはしたないことをするのですか」と諭し、立ち去ってしまいました。
「強いばかりが相撲の道ではない。全ての邪念に打ち勝つことだ」と悟った鬼大夫は、大宰府に着くと身を清め、一心に祈り続けました。
満願の夜、鬼大夫(おにたいふ)の枕元に天神様が現れ、 「そなたの相手は出雲の国の小冠者(こかんじゃ)というものだ。全身が鉄の様な男で、まともにぶつかればどのような者でも負けてしまう。しかし、小冠者(こかんじゃ)には弱点が一ヶ所ある。そこを狙えば勝つことができるであろう」と、お告げになりました。
その後には大根川で出会った娘によく似た神様が額の三寸四方を指していました。
いよいよ天覧相撲の日、出雲の小冠者(こかんじゃ)との対戦となりましたが、鬼大夫はお告げのとおり額の三寸四方をめがけて一突あびせました。
さすがに鉄のような身体の持ち主も弱点を突かれ、その場で倒れてしまいました。
人々は鬼大夫の強さに驚き、相撲の名人と称えました。
相撲に勝つことができたのは、天神様のおかげと感謝し、相窪の地にお社を建てて天神様をまつり、松の木を一本植えました。
このお社と松は、応永年間(室町時代の前半1392~1428)に兵火に遭い焼けました。
現在のものは再建されたものです。


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◆◆しばし休憩・・
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次は導者道を通って新池の跡を経由して柿原方面へ向かいましたが続きは明日のお楽しみ



今回の立石再発見ウォークの写真は、立石コミュニティ協議会の原野さんに撮っていただいております。
ありがとうございました 
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by tateishikou | 2011-06-05 11:29 | ☆再発見ウォーク | Trackback | Comments(0)

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