カテゴリ:☆地域史講座( 5 )

223日(木)


今日は、地域史講座の最終回、九州歴史資料館へ現地学習会に行って来ました。

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昨年の1222日に「ふくおか県政出前講座」で【大宰府の役人と文房具】の講座をして頂きお世話になった、九州歴史資料館の学芸調査室長 小田 和利さんに説明をしていただきながら館内を見学して巡りました。


展示品の説明書きを読むだけでは分からない、展示品にまつわる話など、その時代時代の説明などを聞きながらの見学は、本当に「贅沢」という他ありません。

広々としたスペースの中で展示されている文化財はどれも素晴らしいのは勿論ですが、素人にも資料の変化や過程が解りやすく展示されています。

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また中庭からは、発掘調査で出土した文化財の整理作業や最新機器もあり、保存修理作業の様子を見ることが出来ました。

大切な文化財を科学的に保存して修理する・・・本当に気が遠くなる作業をされていました。


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ここだけでも、十分興味深い!


九州歴史資料館に行かれたことが無い方は是非どうぞ。

行ってみたことが無いなんて、と~っても勿体ないですよ。

行かれたことがある方も、企画展示が年数回 行われていますので、何度でもどうぞ。


静かな時間を落ち着いた中で過ごし、貴重な文化財を身近に感じてみて下さい。



九州歴史資料館

838-0106 小郡市三沢5208-3 /Fax094275-7834

開館時間:午前930分~午後430分(入館は午後4時まで)

休館日:毎週月曜日(休日の場合は翌日)、年末年始(1228日~14日)

 その他、臨時休館することがあります

入館料:無料

観覧料:第13展示室のみ

 一般

    ・・・個人 ¥200、団体(20名以上)150

 大学生/高校生

    ・・・個人 ¥150 団体(20名以上)100

65歳以上の方、障碍者とその介護者1名は無料

土曜日は、高校生も無料、中学生以下は無料

その他、第24展示室、会議室/研修室を利用することが出来ます。詳しくは九州歴史資料館のHP をご覧下さい


小田室長さん、お忙しい中 大変お世話になりました。

お陰様で、受講生の皆さん方に喜んで頂けました。

また講座のお願いなどでお世話になるかもしれませんが、その時はまたよろしくお願いいたします。



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九州歴史資料館を後にして、CAFE DE HIRAOKA さんで昼食をとりました。


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ここは、一般の方が利用できる、カフェレストランを【平岡調理・製菓専門学校 調理師科 】の学生さんが主体となり運営されています。

調理からサービスまでの全てを学生さん達でこなしてありますが、料理が美味しいだけではなく、サービスも良いレストランでした。

併設されたコーナーでパンやケーキの販売もされており、受講生の皆さん方は山盛りのお土産を抱えての帰宅となったようです。

お腹も心も大満足。

さて、今年度まで「成人学級」(年間10回開催)、「地域史講座」(年間5回講座)として開催していた社会教育部会の講座ですが、29年度より2つの講座を統合し「社会教育講座」に名称を変更します


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月から3月までの11回講座を毎回募集しますので、受講をしたい講座に毎回お申込みいただく形になります。


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月から募集予定ですので、ご期待下さい。


初回511()10:0011:30【笑いヨガ】 講師/佐藤 昌久さんを予定しております。


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   ◇◆朝倉市 立石コミュニティ◆◇   
〒838-0064   
福岡県朝倉市頓田205-1   立石コミュニティセンター
■TEL・FAX  (0946)22-2101
■e-mail    tateisi-com@city.asakura.lg.jp


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by tateishikou | 2017-02-23 17:11 | ☆地域史講座 | Trackback | Comments(0)

地域史講座スタート

6月30日(木)

ブログの更新をサボッている間に、6月も今日で最後になりました。
毎日蒸し暑い日が続いておりますが、みなさまお元気にお過ごしでしょうか?

今月の23日(木)に今年度の地域史講座がスタートしました。
年5回の地域史講座は、毎年受講される方も多く、みなさん地域史を学びたい意欲満々の方ばかりです!

第1回目の講座は、講師:立石公民館長 石橋 満弥氏による
《 郷土の史実と史話 「大内城館とその背景」》 でした。

立石地区の方のみならず、朝倉市にお住まいの方はでしたら、とても興味ある内容でした。
石橋氏が準備して下さった資料からご紹介いたします。

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郷土の史実や史話  ~大内城館とその背景~


1.戦時中の大内町
 昔は、今の恵比寿町は後町と呼ばれていました。甘木小学校の北側もその後町の一部でした。
戦後、そこに家が建ち人々が住むようになり、後町は恵比寿町と町名が変わりましたが、甘木小学校の北側は恵比寿町と別れ、大内町となりました

2.どうして大内町?
 戦国時代、長門・周防・豊前と筑前の守護大名であった大内義隆の城館があったことから、その名前がつきました。また、その城館が無くなったのは、部下の陶晴賢の下剋上に原因がありました。

3.大内氏の筑前支配と甘木
 京都を焼け野原した足利氏の将軍の跡目争いを主な原因とした応仁の乱。この時の東軍の総大将は細川勝元>、西軍の総大将は山名宗全でしたが、二人とも応仁の乱の最中に亡くなりました。そこで西軍の中心人物として活動したのが、大内家第27代大内政弘でした。
 大内氏が西軍についたのは、周防・長門・豊前・筑前の守護であり、博多商人と結ぶ大内氏と、大阪泉州堺の商人と結ぶ細川氏利害関係が最大の原因だったのです。将軍足利義光を戴いた東軍は、幕府の名の下に諸国に幕府方に刃向う者、即ち西軍を討伐するようにと下知をとばしました。
 この下知に応じたのが、九州でもともと勢力を持ち、大内氏の九州進出を嫌う少弐氏・相良氏・島津氏・大友氏・菊池氏などですが、秋月氏は大内方につき、少弐氏を攻めたと言われています。また大内政弘に従って京都にのぼったものの中にも秋月氏の名が見えます。

 京都で長期にわたる対陣の中で、守護大名たちは自分の国の中で不穏な動きをする守護代や士豪たちの動きにも気を配らねばなりませんでした。大内政弘も例外ではなく、守護代や士豪の不穏な動きを抱えていましたので、東軍である幕府方から官位をもらうことによって、名誉ある?帰国であると吹聴したのです。(秋月氏は、この名誉ある?帰国に対して、お祝いに太刀千疋を献上しています。)
 帰国した大内政弘は、少弐・大友によって蹂躙された豊前・筑前国の建て直しをはかりました。この時秋月氏は、大内政弘に、肥前の小城城の少弐一族攻めを命じられるのですが、援軍を要請した秋月氏の願いは聞き入られず、手勢を用いて小城攻めを行うのです。このことからも秋月氏は既に大内氏に隷属化していたと云えると思います。

 大内政弘は、長い帯陣の間に京都の文化に触れ、遂にはその虜となり、生活様式も公家化への道を進み始めるのです。

 九州進出を狙う大内氏にとって、山陰に勢力を持つ守護である尼子氏に、背後を突かれる恐れがありましたので、第28代大内義興尼子経久を攻めますが、成果をあげることなく亡くなりましたので、義興の子、義隆が22歳で家督を継ぎました。

 義隆が家督を継いだ頃は、大内氏の中に公家文化が浸透していたとはいえ、後に下剋上によって大内義隆を倒した陶晴賢の父晴房をはじめ、まだまだ武断派が義隆を補佐し、家臣に跡目争いによる分裂や逆臣の出現を許しませんでした。
 家督を継いだ義隆も父義興の遺志を継ぎ、少弐討滅へ力を注ぐのですが、少弐氏は大友氏と同盟を結び反抗しましたので、徹底的に少弐氏を追い詰め、また大友氏への備えとして1530年 享禄3年に甘木に城館を建てました。

 ところが大内義隆は、桁はずれな出世欲と男色好み武断派よりも文人派を重宝するという面が強く、このことが大内義隆の命取りとなり、大内家滅亡の原因となるのです。

4.大内家滅亡の原因
 第28代大内義興・第29代義隆も、第27代政弘に劣らず、京都文化の摂取に熱心でした。
 特に第29代大内義隆は、歌道・儒学・神道・仏学・漢詩・管弦・能楽など、学問や芸能などのあらゆる分野に通じ、戦国大名の中では一番の文化人で、その力量は公家にも負けず劣らずの持ち主でした。
 従って、京都文化をそのまま映したと言われる西の京(山口)には、京都をはじめ全国から文化人が集まってきました。
 大内義隆は、それらの人々に多額の費用をかけて接待し、また上位の官位とその官位の利権が欲しく、朝廷や公家に次々と莫大な献金をし、1542年遂に従二位まで上りつめました。
 しかし、このような文化人への接待と朝廷や公家への献金によって財政がひっぱくし、重税にあえぐ領民の間では、不満が増大していきました。
 それでも箱崎宮や宗像大社、香椎宮や天満宮などに多額の奉納寄進を行いましたので、これらのことにより、対明貿易や対朝鮮貿易で築いた巨大な富も無くなり、領民には度重なる臨時の重税を課したため、領民の不満はますます増大していきました。
 もちろん、大内義隆が家督を継いだ時、補佐をしていた陶晴房をはじめ、武断派の諸将はことあるごとに諫言しましたが、義隆は聞く耳を持たず、武断派を遠ざけ、大内家には縁もゆかりもない文人派を重用していきました。

 国内がまさに末期的な症状を呈している時、天文12年山陰の尼子晴久との戦いに大敗した義隆は、武事を忘れ、公家の生活や文化人の接待、献金によってより上位の官位へと、のめりこんでいきました。

5.陶晴賢のクーデター
 大内義隆が家督を継いだ時、強く補佐をしていた陶晴房の子晴賢は、このような状況を打破し、国の安泰を図るには、義隆を討ち、文人派を一掃するほかない下剋上によって義隆を討つことに成功しました。主君を討ち、国をとる下剋上の世の中の不忠者で悪人の代表のように言われてきた陶晴賢は国の建て直しを図った立役者であったかもしれません。
 しかし、大内家の中には、主君義隆を討ったことは「臣」としての道に反するとして、毛利氏に討たれることになり、周防・長門は毛利氏の勢力下に置かれるようになっていきます。
 このことは本能寺の変によって織田信長が明智光秀によって討たれ、明智光秀は主君の仇と羽柴秀吉によって討たれたのと同じといえるかもしれません。

6.甘木の大内城館
 第29代で家督を継いだ大内義隆は、九州進出を狙い、少弐氏を討とうと軍を進めてきましたが、少弐氏は豊後の大友氏と同盟を結び、徹底抗戦を図りましたので、西の少弐氏、東の大友氏に対抗するために、九州路(肥前や肥後、筑後から秋月、八丁超え、大隈、豊前への道)と豊後路(那の津から太宰府、日田、豊後府中への道)が交差する交通の要地である甘木を九州進出の拠点とし、現在の大内町から甘木小学校一帯にかけて城館を築いたのです。
 城館は、大濠や城壁、天守などの外観的な威容は見られませんでしたが、外柵や陣屋などはとても堅固であったといわれています。初代の城主大内義明は義隆の命を受けて、少弐氏や大友氏によって荒らされたこの地の商人の保護や商品の流通、価格の安定などの仕組みなどの機能の回復や、甘木川の治水を手掛けました。また人心を安らげようと、聖僧 法光上人を迎えて寺院(光照寺)を熊野大社から神霊を勧請して権現社を建てました。これらのことによって、甘木の市場は回復、繁盛し、とくに城館付近は店が軒を並べるような盛況さを呈したといわれています。
 ところが、1551年(天文20年)、陶晴賢のクーデターによって、大内義隆が討たれたため甘木大内城も全軍引き揚げとなりました。
 残された光照寺や権現社の霊城は年月が経つとともに竹藪に覆われ、光照寺は現在の場所(甘木小学校の南、九州電力の東)に、権現社は現在の保健所の入口にこんもり茂る楠の木のところに移され、甘木大内城の形見として残っています。当時の大内城館の門前に住んでいた人達も今の権現社の近くに移り住み、後に町名を横内町としたと伝えられています。
また、光照寺のご住職は「大内さん」です。

7.安見ケ城の戦いへ
 大内氏をクーデターによって倒した陶氏も毛利氏に討たれ、その後 秋月氏は大友氏につくのですが、反旗を翻し毛利方につき、大友氏の攻撃をうけ、安見ケ城の戦いとなっていくのです。

主な参考文献
九州戦国史       吉永正春著
甘木市史        甘木市史編纂実行委員会
甘木雑記(甘木大内城跡)朝倉新聞切り抜きより
資料作成:地域史の講師をしていただいた石橋 満弥氏


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いかがでしたか? 
頷きながら読まれている朝倉市民のみなさまが、きっと大勢いらっしゃることだと思います。


町名にも歴史があるようです。
ひとつひとつを紐解いていく地道な作業を、楽しそうにすすめていかれる石橋氏。
きっとまた新たな地域史を語ってくださることだと思います。

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次回の地域史講座は8月25日(木)です。


梅雨明けは、まだ先になりそうですが この暑さは今からが本番・・・。
みなさま体調を崩されませんように。
水分の補給と適度な休憩をお忘れなく 
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by tateishikou | 2011-06-30 09:57 | ☆地域史講座 | Trackback | Comments(0)

地域史講座③

9月25日(金)

昨日の第3回地域史講座【頓田立野遺跡見学と甘木・朝倉 碑文めぐり】でした。
案内して下さったのは、朝倉市教育委員会 文化課の川端さんです。
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◆◆右端が川端さん

まずお邪魔したのは頓田立野遺跡・・・・何度か当ブログ“埋蔵文化財 発掘調査の現場から”で紹介しておりますアノ発掘現場は≪頓田立野(とんたたての)遺跡≫と名前がついておりました!
その頓田立野遺跡の見学に行って来ました。

現場で説明していただいたのは、いつも取材でお世話になっている
朝倉市教育委員会 文化課の篠原さんです。
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◆◆中央の一番日焼けしてある方が篠原さん

受講生のみなさんは、初めて発掘現場に足を踏み入れられたようで、篠原さんの説明を真剣な眼差しで聞いていらっしゃいました。

頓田立野遺跡は、だいたい掘り終わっているそうで現在図面におこす作業が行われていました。
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当初の予想どおり、鎌倉時代から室町時代にかけてのお寺か豪族の館ということで間違いはないそうです。

戦国時代以前だと記録がないので、発掘してわかることも多いとか。
戦国時代は板葺(いたぶき)の屋根が主流で、この時代に瓦が使えるのは、大名クラスの豪族かお寺しかなかったようです。
それだけ瓦は高価な物だったそうです。

東西の溝がいっぱい出てきていますが、お城の周りに防御の為に掘られていたのと同様、当時のお寺も武力集団だったので、お寺を守る為に掘りを作ったのではないか・・篠原さんは、お寺の外周のお堀とにらんでいらっしゃるようでした。
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北東のコーナーは推定ラインでわかるので、南東、南西―北東がわかれば、おおよその大きさがわかるようです。
今のところ1丁×1丁 100m×100mくらいではなかったか、ということです。

また、穴がたくさん開いていましたが、その中には地盤沈下を防ぐために板石を置いたものがあるということでした。
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そのうえに柱を立てると板石のあるなしでは建物の建て方が違うそうです。
頓田立野遺跡1400年代~1600年代にかけての200年間、1つの建物の寿命が20年間として、10回の建て替えがあったと考えられます。
一見すると、現場には穴がたくさん開いていて どれとどれをつなげるとか考えられないようにも見えますが、直径が同じ穴(セットの穴)をみつけていくと、柱穴は一直線につながっていくので同時に立っていた区画が見えてくるそうです。

もっと中の様子をお聞きしたかったのですが、今回はココからがスタートですので後ろ髪を引かれる思いでみなさん出発です。

ここから先は、
秋月城址を訪ねて~西念寺~長生寺~腹切岩~江川栗河内~恵蘇八幡宮(「秋の田」碑など)~水神社(山田堰碑など)
というコースで回って来ました。

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◆◆西念寺
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◆◆橘廣庭宮之蹟

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◆◆朝闇(ちょうあん)神社 
別名:大行事社(だいぎょうじしゃ)
祭神:高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)
「朝倉」の地名はこの神社の「朝闇」からきたものではないかとも考えられているそうです。

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◆◆恵蘇八幡宮

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◆◆受講生のみなさん

昨日は、日差しも強くて外での学習は大変だったと思います。
参加していただいた皆さん お疲れ様でした。
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by tateishikou | 2009-09-25 19:05 | ☆地域史講座 | Trackback | Comments(0)

地域史講座②

7月23日(木)

今日は第2回 地域史講座がありました。
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◆◆本日は、18名のみなさんが参加されました

講師は第1回目に引き続き、教育委員会 文化課の川端 正夫氏にお願いしました。
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◆◆いつもお世話になっている川端氏

本日のレジメをご紹介いたします。
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【立石の地域史と伝説・伝承】

1.国家神話と地域伝承
①定住と言語成立から「国」の形成
 共食・言語~協働・協議~権力・組織~「国」
 「共通の出自」「共通の歴史」「権力の正当性」


②地域社会の変遷と成熟
 縄文~弥生~古墳
 古代国家の成立と地域社会間交流


2.立石地区の特色
①自然的条件
 里山と佐田川
 扇状地・伏流水


②人文的・歴史的条件
 中近東~中国~半島~列島、博多・太宰府、豊前・豊後、肥前・肥後
 卑弥呼?~斉明、祇園・安長、古代の官道・中近世の街道(秋月・英彦山)、近代の鉄道・橋、現代の高速道路・国道BP


3.口頭伝承・口承文化の帰趨
①文字文化、活字文化
②音声と映像~バーチャル・サイバー世界

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ここ立石は、地域史・伝説・伝承という言葉が似合う街でもあります。
深く知れば知るほど歴史がつながっていくようです。

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教えていただく先生も、地域史の受講生のみなさんも、とても熱心です。
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by tateishikou | 2009-07-23 20:16 | ☆地域史講座 | Trackback | Comments(0)

地域史講座 開講式

5月28日(木) 今年度の地域史講座が、20名の受講生のみなさんで始まりました!
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第一回目は、朝倉市 文化課 出前講座。
講師は、朝倉市教育委員会 文化課 川端 正夫氏
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お話は、石の話から旧石器時代~縄文文化~石碑のおはなしと繋がりまして、
朝倉市内にある文学碑・歌碑の説明をしていただきました。
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みなさん、朝倉市内にある“歌碑” “文学碑”をいくつご存じですか?
ほんの一部ですが、ご紹介いたします。

★松尾芭蕉 ・立石神社(堤)
・・・・・春も漸けしきとゝのふ月と梅 

⇒・安長寺(八日町)
・・・・蕉翁 雪見塚

★黒田長元 ⇒・遠藤金川堂入口(屋永)
・・・・・・こがね川清瀬に生る水苔は千歳をかけて猶しげるらむ
・・・・・・豊とせや春を寿ぐ松の風
⇒・日照院(野鳥)
・・・・・見る人のこゝろ涼しき蓮かな

★黒田長興 ⇒・秋月城址垂裕神社(上秋月)
・・・・・・白妙の雪にあらで今宵猶千里をうづむ月の影かな

★原 采蘋 ⇒・秋月城址(上秋月)
・・・・・・此去単身又向東 神交千里夢相通
     家元天末帰何日 跡似楊花飛任風

★原 古処 ⇒・西念寺(下秋月)
・・・・・水盈渓樹緑 好引長筇去 
     山陰有小亭 是我鳴琴処

★東久世通禧 ⇒・古心寺(下秋月)
・・・・・かぐわしきその名を千代にのこしけり
    身はあだなみにしづみはつとも

★日照院亮道 ⇒・古心寺(下秋月)
・・・・・ねがひ見よちがひたがはじ御ほとけに
    うむ子もやすきしるしあるらむ

★佐谷市芳 ⇒・鳴渡観音(下秋月)
・・・・・世をさらば限りのこゑやほとゝぎす

★高浜虚子⇒・西念寺(下秋月)
・・・・・春山も最も高きところ古処
⇒・秋月城址(野鳥)
・・・・・濃紅葉に涙せき来る如何にせん
⇒・上野邸(水町)
・・・・・初時雨ありたりとかや庭の面
⇒・甘木公園(菩提寺)
・・・・・風薫るあまぎいちびと集ひ来て
⇒・秋月竹地蔵尊(山見)
・・・・・はなやぎて月の面にかゝる雲


まだまだご紹介しきれないほど多くの文学碑や歌碑が存在する朝倉市。
一度ゆっくり探しながら歩いてみませんか?

次回 地域史講座は、7月23日を予定しております。
現在進行中の立石公民館横グラウンドの発掘調査( !! )
の進み具合によって、地域史講座で現地説明会を実施する予定ですので、お楽しみに!
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by tateishikou | 2009-05-28 15:25 | ☆地域史講座 | Trackback | Comments(0)

朝倉市 立石コミュニティ      毎日のドタバタ日記


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