カテゴリ:☆再発見ウォーク( 9 )

『あさくら再発見ウォーク ~斉明天皇ゆかりの地を訪ねて~ 』

6月16日(金)

梅雨だというのに、暑い日が続いております。
朝倉市は連日の30度越えではないでしょうか・・・・。

4月5月と忙しさにかまけてブログの更新を怠っておりましたので、今月の行事の紹介をしながら5月の大きな行事【立石通学合宿【市民祭[あさくらにぎわっ祭~卑弥呼の恵み~]】などの様子も出来れば紹介していきたいと思います。

今日は、新しいところで先週の土曜日10日に開催した《あさくら再発見ウォーク》の様子をご紹介しましょう!


三連水車あさくらの里に現地集合

三連水車公園出発⇒三連水車(組立作業中)⇒隠家森

⇒水神社⇒山田堰~恵蘇八幡宮周辺

恵蘇八幡宮本殿・陵墓伝承地の古墳・関守の墓⇒三連水車公園

   ★陵墓伝承地の古墳・関守の墓(市指定史跡)

   ★恵蘇八幡宮の大クス(県指定天然記念物)

   ★水神社の大クス(県指定天然物)

講師:古賀区在住の篠原さん(市文化・生涯学習課勤務)


開催日が雨の予報も出ていて心配していましたが、当日はピカピカの晴れで、50名の皆さんと元気に楽しく歩く事が出来ました。

今回の講師の先生は、気の毒にも地区内在住というだけでお休みの日に呼び出される朝倉市文化・生涯学習課に勤務されている篠原さん。
土曜日曜日は、市の職員さんの派遣はお願い出来ません。

しかぁ~し、史蹟などを巡るには、
❶土日開催して参加しやすい開催日に設定したい!
❷講師の方はキチンと説明が出来る方をお願いしたい!
❸講師の先生にコースの設定や資料の準備などお任せしたい!
❹無理を聞いていただける講師の先生が良い!
❺予算はあまりない!
など、わずかばかりの?条件がございまして、それをクリアできる方というと講師の先生が限られて来るのでございます。

その点、人口1万人を超えるわが立石地区には、イロイロな特技をお持ちの方が大勢いらっしゃいます。
歴史に詳しい方、切り絵や貼り絵が得意な方、竹細工が得意な方、藁細工が得意な方、お野菜作りが得意な方、手芸が得意な方、イベントの企画が得意な方、などなど・・・いろいろな方面でいろいろな方達につながりを持てる幸せな地域なのです。

今回も、立石地区健康づくり推進委員会の役員会で計画として「旧朝倉町方面」「恵蘇八幡宮」「山田堰」「三連水車」などのキーワードが出た時点で、篠原さんに連絡をして講師を無理やりお願いした次第です。

「篠原さん、6月10日(土)にあさくら再発見ウォークをするんですが、お休みでしょうが何か用事が入っていらっしゃいますか?」
「・・・・残念ながら、空いています・・・。」

地域在住者だからと、いつも気持ちよく協力をして下さる篠原さん。(←本当は かなり迷惑をされていると思います)
有り難いことです。

※カテゴリの『埋蔵文化財 発掘調査』をクリックしていただくと、篠原さんの少し前のお仕事の様子をご覧いただけます




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後姿が、休日に強制参加させられた感が否めない篠原さん。何となく元気がありません


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うつむいてスタートの篠原さん。参加者の皆さんは元気に出発


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組み立て作業中の三連水車



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説明を元気にされている篠原さん。三連水車の説明中


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組立作業の様子



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隠家森


隠家森
その昔、朝倉に関所があった頃、関所を通れない者が夜になるまで、このあたりの森に身を隠し、暗くなってから関を通っていたことから「隠家森」と呼ばれるようになったと伝えられていています。



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恵蘇八幡宮が祭事中のため、すこし手前で事前説明を



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水神社


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恵蘇八幡宮


恵蘇八幡宮
旧朝倉町の東端にあり、上座郡(旧朝倉町、旧杷木町、東峰村)の総社として親しまれています。
恵蘇八幡宮演技によると、中大兄皇子(後の天智天皇)は国の発展と戦争の勝利をお祈りするため、宇佐神宮(大分県宇佐市)の祭神である応神天皇を祭りました。このとき、八幡大神の旗が舞い降りたので、「朝倉山天降八幡(あさくらやまあもりはちまん)」と名付けます。その後、673年に斉明、天智の二柱を合わせ祭られ、勅命により恵蘇八幡宮となりました。
・・・・「朝倉町教育委員会発行:あさくら町の文化財」より抜粋



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水時計(漏刻)

水時計(漏刻)
天智天皇は漏刻(漏刻/水時計)をつくって人々に時を知らせていたと伝わっています。
中国で用いられていた漏刻の形式を模倣したものと考えられています。
この漏刻は、段違いに並べたもので、第一番目を夜天智、第二番目を日天地、第三番目を平壺、第四番目を万水壺といい、万水壺の中には矢が立ていられています。
第一の壺に水を注ぐと、水は管を通って順番に一番下の壺である万水壺へと流れ込み、万水壺に水が溜まるにつれて、矢が浮き上がるようになり、矢に記された目盛りを読み取る事で時刻を知る仕組みになっています。


恵蘇八幡宮では、毎6月10日(時の記念日)を記念して式典が催されておりますが、ウォーキング当日は時の記念日にあたり、お邪魔した時間にちょうど祭事が行われていました。


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木の丸殿跡




木の丸殿跡
斉明天皇は朝倉橘広庭宮到着後2ヶ月ほどでお亡くなりになります。中大兄皇子は、天皇がお亡くなりになった7日後の8月1日、亡骸を御陵山に仮に葬られます。皮が付いたままの丸太の柱をたて、板を敷き、蘆の簾をかけ、1日間を1ヶ月にかえて12日間喪に服されたと伝えられます。この建物を「木の丸殿」といい、現在の恵蘇八幡宮境内に建っていたと伝えられます。
・・・・「朝倉町教育委員会発行:あさくら町の文化財」より抜粋





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時の記念日と三連水車の組み立て作業一般公開日・・・。
貴重な日に見学をすることが出来ました。


恵蘇八幡宮から三連水車あさくらの里に戻り、注文していたお弁当を受け取り、流れ解散。
お天気が良いので、三連水車公園でお弁当を広げる人もいました。




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地産地消のお弁当。とても美味しかったです


参加者の皆様、ご参加いただきましてありがとうございました。
プロの説明付きのウォーキングはいかがでしたでしょうか?
またのご参加、お待ちしております!

篠原さん、いつもご無理言って申し訳ございません。お陰様で、参加者の皆様に大変喜んでいただけました。
これに懲りたとおっしゃらずに、今後ともよろしくお願いいたします。







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   ◇◆朝倉市 立石コミュニティ◆◇   
〒838-0064   
福岡県朝倉市頓田205-1   立石コミュニティセンター
■TEL・FAX  (0946)22-2101
■e-mail    tateisi-com@city.asakura.lg.jp  


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by tateishikou | 2017-06-16 17:25 | ☆再発見ウォーク | Trackback | Comments(0)

平成28年度 あさくら再発見ウォークを開催しました!

6月10日(金)

梅雨の晴れ間の五月晴れ。
今日の朝倉市の最高気温の予報は32度!
干からびない様に、ほどほどに仕事を しないと。

前回、アップしたい!アップしたいと!と騒いでいた、4日(土)に開催しましたあさくら再発見ウォークの様子をアップしたいと思います。

今回のコースは、
《 甘木門前町巡り 》 
須賀神社 安長寺 肥前屋旅館 松屋ガーデンパレス 厳島神社 老松醤油 松岡本家 天満神社 龍泉寺 フレアス甘木( 【佐野 至 回顧木版画展】)

「甘木門前会」久保寺 重規会長上野 春樹さんに説明をお願いしました。

集合は、須賀神社です。


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小雨がパラついていたので、藤棚に避難しながらのスタート




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参加者は50名



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まずは参拝します



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須賀神社三浦 宮司のご厚意で、社務所で甘木町の歴史について久保寺 会長宮司さんからおはなしをして頂きました。
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甘木門前会の久保寺会長



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須賀神社の三浦 宮司


打ち合わせの際に、「立石は、上座郡ですか?下座郡ですか?」と最初に、三浦宮司から質問をされました。
へへへ・・・「立石は、下座郡です!」と私は即答できるのです!
(地域史に詳しい 石橋 立石公民館長に仕込んでいただいたおかげです。)


しかしすかさず、久保寺会長が「来春村、一木村、頓田村、古賀村は、筑前福岡藩領で、柿原村、堤村は筑前秋月藩領だったんですよ」と教えて頂きました・・・凄過ぎる・・・


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貴重なお話をお聞きして、須賀神社を後にして安長寺に移動です。

甘木町は安長寺の門前町として発祥し、古くは「甘木千軒、博多千軒」と言われる程に賑わっていました。
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甘木門前通りの看板を発見!




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安長寺

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安長寺の女楠と須賀神社の男楠は夫婦楠と呼ばれています


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安長寺と須賀神社を行き来していると言われているフクロウ


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肥前屋旅館



肥前屋旅館は、江戸の初期、寛永年間に建ったという木造瓦ぶき4階建ての珍しい旅館でしたが、昭和末期に解体されました。


次は、松屋ガーデンパレスさんで、日本庭園や歴史があるお部屋を見せていただきました。
トイレ休憩もお願いして、お世話になりました。


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厳島神社



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説明をしていただいた岸田さん


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老松醤油 松岡本家(ゆずぽん酢が美味しいですよ/夏まつりでもお世話になっています!)


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貴重な古い建物が残されていました


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天満神社


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龍泉寺



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龍泉池旅館をされていた草場さんご夫妻にも説明をしていただきました





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草場さん


フレアス甘木で【佐野至 回顧木版画展】を見学しました.


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もやい広場サンをお借りして 楽しい昼食タイム



お天気は、時折 小雨が降っていましたが、久保寺会長さんが門前町の皆さんにお声かけして下さり、須賀神社様や安長寺様、甘木地区区会長会の皆さん、商店街の皆さん方をはじめ、大勢の方達が説明などご協力をして頂きました。


特に、久保寺会長には何度も打ち合わせの時間を割いていただいた上に、貴重な資料も提供して下さいました。
参加人数が多いからと、甘木門前会の上野 春樹さんにもお声かけしてもらい、快く引き受けて頂きました。

お忙しい中、須賀神社の三浦 宮司さんには、説明の時間をとって頂いた上に社務所まで解放して下さいました。

大勢の「甘木町」の皆さん、ご協力ありがとうございました!

是非、立石地区にも遊びに来て下さいね。

そうでした!
生涯学習課の井本係長をはじめ、古賀さん、西原さん、「皆さんの職場は、甘木ですからねぇ。甘木のことを知る良い機会ですよ~。」とお誘いしたところ、二つ返事で参加のお返事を頂きました。お休みのところをありがとうございました!

お隣の町なのに、知っているようで知らなかった甘木を学べた1日になりました。
また機会があれば、甘木門前会の皆さま よろしくお願いいたします。



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by tateishikou | 2016-06-10 10:45 | ☆再発見ウォーク | Trackback | Comments(0)

あさくら再発見ウォーク

6月2日(月)

2014年の折り返しの月、6月に入りました!

5月31日(土)に、あさくら再発見ウォークを開催いたしました。

今年のあさくら再発見ウォークは、秋月再発見スペシャルコース!!(命名:奥田事務局長 )
贅沢にも、秋月学校ガイドボランティアさんの説明を聞きながら、秋月再発見ウォークです。
今回は、秋月学校ガイドボランティアさんの、三坂さん山本さんにお世話になりました。

土曜日は幸いお天気にも恵まれ(去年のあさくら再発見ウォークは、雨だったのです・・・)、51名のお申込を頂きました。

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朝倉市スポーツ推進員である上田さん指導による入念なストレッチ運動・・・。

すでにココで、疲れた・・・との声もあがりましたが元気に出発!!

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市指定有形文化財 旧田代家住宅
 石田家住宅は、秋月町並みの中心部に位置します。もともと、秋月藩御用商人甘木屋遠藤家の持家で、出店や貸家として使用されていました。明治になると、遠藤家は秋月を離れ、昭和なって石田家に譲渡されました。石田家住宅の特徴は、典型的な町屋が2棟並びに建ち、それを併合したり分離したりしながら、巧みに居住区館を利用している事にあります。

 妻入入母屋の外観をみせる西棟は、「津乃屋」と呼ばれ、宝暦の大家(1762)後、すぐに再建されました。また切妻屋根の東棟は「辻の屋」と呼ばれ、寛政11年(1799)に建てられ、幕末に改修したという記録が残ります。

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廣久葛本舗

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店内に飾られている鎧の見学



筑前秋月和紙処
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和紙作りの様子の見学




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田中天満宮
 田中天満宮は、本来 中世秋月氏の家臣であった古賀平左エ門の屋敷内にあったものを、黒田長重の時、島原の乱に出陣した藩祖黒田長興の武運祈願が成就したため、現地に再建されたと言われています。以来、歴代藩主が参拝に訪れたと伝えられています。

 また、明治9年に起こった、秋月の際には、決起した今村百八郎ら士族の集合場所となりました。この境内に所在するイヌマキは、田代家のイヌマキと同様に、マキとしての規模は大きく、樹齢400年と推測されます。 ☆樹高:24.0m/胸高周囲:3.20m

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日限地蔵尊
 秋月藩士 後藤他門が江戸参勤交代の時、大病(腸チフス)を患い、一命が危ないところを、江戸芝の松秀寺日限地蔵尊に祈念し、病を完治したことから、日限地蔵尊の分身を勧請安置しました。その後、嘉永6年(1853)藤田吉蔵が地蔵院債権しました。見事な石垣は、明治33年に地元の内田幾太郎が熊本城を参考に築いたものです。
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「何でも願い事が叶いますよ」とガイドの山本さんが


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武者返しの石垣






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清流庵のお庭拝見させていただきました



古心寺
 秋月黒田氏の菩提寺。興雲山古心寺。
黒田長興により、父長政の菩提を弔うために建立されました。
境内の奥の一角に秋月黒田家十二代までの藩主、正室、側室、子女達の墓が並んでいます。
高さが2m以上ある墓が並んでおり、風化もせずにきちんと並んでいます。
この墓は秋月石と呼ばれる花崗岩です。
黒田長政の長男であった「忠之」は暗愚(おろか=頭の働きがにぶいさま。考えが足りないさま。)であったために、長政は聡明な三男の長興(ながおき)を後継者にしようと思っていましたが、家老の栗山利章が反対したため、結局は忠之が第2代藩主となりました。しかし、長政の遺言で長興に5万石(秋月藩)を分知しました。
この時に初めて秋月黒田藩が誕生したのです。この恩に報いるために、「黒田長興」が、この古心寺を建立しました。


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日本最後の仇討
 秋月藩執政の臼井亘理(うすいわたり)は、藩はじまって以来の大極流の軍学に対し、足軽の新銃隊(福岡本藩に習った様式兵制)を組織しました。これに怒った「干城隊」と称する青年士族グループが臼井亘理宅に押しかけ、妻もろとも斬殺しました。長男六郎(当時11歳)は、祖父と別室に寝ていて難を逃れました。この時「稽古館」助教の中島衝平も斬殺されました。19歳になった六郎は、直接父母に手を下した一瀬直久(旧名 山本克己)を追って上京します。一方、一瀬は司法省に入り、官吏の道を歩んでいました。六郎は苦難のすえ、明治13年12月17日東京上等裁判所(現 東京高裁)判事に出世した一瀬を旧秋月藩邸で、父遺愛の短刀を用いて刺殺しました。(六郎23歳)
明治6年の仇討禁止令後の出来事で、世に“日本最後の仇討”と呼ばれました。六郎は、明治14年9月に終身刑を言い渡され服役していましたが、明治23年大日本帝国憲法公布により大赦の施行で仮出獄し、大正6年9月に亡くなりました。
享年60歳。


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腹切岩
 天生15年(1587年)3月、豊臣秀吉は、九州平定の途につきます。
(第一陣、第二陣は1月に出陣)
秋月種実は島津義久と同盟し、秀吉の軍を迎え撃ちますが、北九州随一の堅城を誇った岩石城をわずか一日の戦いで攻め落とされて降伏します。
それまで筑前・筑後・豊後の3カ国11郡36万石余を誇っていた旧領を失い、わずかに その10分の1以下の日向財部(たからべ/高鍋)3万石に移されました。これより先、秋月の重臣の一人、恵利内蔵助暢堯(えりくらのすけのぶたか)は、秀吉勢は強大で、秋月勢の到底抵しきれるものでないことを悟り、種実に和を結ぶことを進言しますが理解を得られず、かえって怒りを買い、ついには自刃するという悲劇に終わりました。
《天生15年(1587年3月14日 享年38歳)》

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鳴門観音
 寛永年中 当主 黒田長興が秋月に入国した後、恵利暢堯(えりのぶたか)の忠誠を感じ、一宇の堂を建立し、霊を安置され鳴門山音声寺と称された・・・と伝えられます。その後、廃寺となり、今残る観音堂は、国中第29番目の札所として巡礼されています。



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大涼寺
 秋月黒田長興の生母、大涼院殿の菩提寺です。
大涼院殿は徳川家康の養女永子で、寛永12年(1635)正月、当時秋月に蔓延していた疱瘡を患って51歳で逝去しました。新更新厚かった長興は、母の三回忌にあたり法要を営み、母の位牌をこの寺に安置しました。この寺はもともと、高照院浄仙寺と言って、天生3年(1575)の秋月氏時代、秋月氏の家臣であった牧四郎左衛門が別な場所で開山し、長興が入部したのち寛永9年(1632)に今の場所へ移されたと言われています。母の位牌を安置して、本堂背後の小高い丘に石碑を建てて、「秋月山浄仙院大涼寺」と改めて、寺領三十石を寄進しました。
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長生寺
 慶長5年(1600年)長崎の豪商、末次興膳善入が85歳の記念に建てたものです。本堂は立て直されましたが、山門は当時のものがそのまま使われています。ここには、緒方春朔のお墓があります。緒方春朔は、種痘の研究・人痘種痘法の全国への普及に尽力した後、文化7年(1810年)1月21日、63歳で没しました。
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斎藤秋圃の天井絵


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杉の馬場
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櫓跡
 長屋門は、昭和62年度より3カ年計画で全面解体による保存修理がなされました。この解体によって新たな発見がありました。長屋門は城跡の旧位置にのこる唯一の遺構と伝えられていますが、昭和2年・文政3年に描かれた古地図では同じ位置に示されているので、位置が変わらなかったことは確かです。しかし、両図とも表門の幅よりせまく描かれています。解体の結果、長屋の中ほどに立柱の礎石の扉軸穴の偏心、門上部北側藁座から「嘉永三戊」の墨書が発見されました。この発見によって、本門は文政3年までは表門と同じ一間二戸薬医門か一間二戸棟門であったものが、嘉永3年に古材を利用して長屋をつけた現長屋門を建立したものと推定されます。
さらに幕末時の「秋月御館図」では、同じ大きさの長屋が描かれているが、解体前は南棟が桁行七間・梁行二間、北棟は桁行四間・梁行二間でした。発掘調査の結果、北側三間目は確認出来ませんが、二間は確実に張り出していたので、解体整備では、南棟は桁行七間・梁行二間のままとし、北棟に二間継ぎたして桁行六間・梁行二間の長屋門に拡張されています。

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瓦坂
 大手門「黒門」の土橋である瓦坂。互を縦に並べて土の流れを防ぎました。
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秋月城(福岡県指定文化財)黒門(福岡県指定文化財)
 杉の馬場の南東東側の高台にあり、現在は中学校と公園に利用されています。堀や石垣とともに本門(黒門)、長屋門が当時の面影を残しています。本門は黒門と呼ばれ、秋月氏の古処山域搦手門を黒田氏が秋月城の本門に移し、さらに明治初年の廃城の際、垂裕神社の表門としたものと伝えられています。門は木太い薬医門で本瓦葺、男梁の上に大板引き蟇股(ひきまた)をおいています。蟇股(ひきまた)や水引虹梁の絵様から、天生年間の秋月時代までは遡らないまでも、17世紀前半の建築と推定されています。

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秀吉が秋月征伐の際に腰かけたと伝えられる 大公石

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3時間歩いた後は、秋月コミュニティセンターで昼食。
秋月コミュニティセンターさん、場所を提供して頂きありがとうございました!!

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今回の昼食は、秋月の美味しいパン屋さん月の峠さんにお願いして焼きたてパンを準備してもらいました
お一人様、焼きたてのカレーパン1個 & お好みのパン(ぶどうパン、クリームパン、フランスあんぱん)をもう1個選んでいただきました。

どう選んでいただくかと申しますと・・・。

受付時にクジを引いてもらいました!

へへへ・・・大人も子どもも関係ありません!!
お昼のパン選びは自分でクジを引いて順番を決めるのだぁ~!!

※月の峠はコチラから(資)三隅製麺工場

あっ 肝心のパンの写真を撮り忘れております・・・。

みなさん自分の順番を大人しく待って、パンを慎重に選び ようやく美味しいパンを楽しむ時間です。



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皆さん、暑い中お疲れ様でした。
案内をしていただいた三坂さん、山本さんありがとうございました。
昼食の場所を提供して頂いた秋月コミュニティセンターさん、お世話になりました。
月の峠さん、焼き立てのパンはとっても美味しかったです!

結局、終了時間になっても予定の場所を回りきれませでした・・・が、

「説明をしてもらいながら巡ってとてもわかりやすかった~」
「知っているつもりだった秋月の知らない面をたくさん観る事が出来た」
「ウォーキングが楽しかったし、パンが美味しかった」

と、終了後に参加者の皆さん方から「良かったよ」の感想と「続きを是非秋に!」という声も多く在りましたので、秋にまた秋月にお邪魔したいと計画中です。




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なお、今回ブログで各名所の説明を使わせて頂いた資料は、以前 朝倉市文化課乙藤さんからいただいていたものを無断使用させてもらっとります。
またしても・・・乙藤さん すみません・・・。

ちなみに乙藤さんから秋月を案内していただいた時の様子はコチラコチラ です。
秋月LOVEが溢れている様子を是非ご一読ください。

このブログを読まれたみなさん、秋月に行かれたくなったのではないでしょうか?
いいですよ~秋月


 秋月に興味がある方はこちらをクリックして下さいね

★★ 秋月観光マップ 「秋月城下町」 ★★





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by tateishikou | 2014-06-02 12:00 | ☆再発見ウォーク | Trackback | Comments(0)

あさくら再発見ウォークを開催しました

6月1日(土)

6月は雨のスタートとなりました。

さて、本日 あさくら再発見ウォーク強行開催しました!

募集要項には「雨天中止」と書いておりましたが、へへへ・・・雨天決行です。
次回から、「小雨決行」にします。

中止するには、あまりにも残念なコースでしたので(自画自賛?)今朝、役員で開催決定をしてから、「きっと今日は中止だろ~なぁ~」と油断していた参加申込者の方達全員へ「開催します!」のお電話

何人かの方は、参加を見合わせられましたが、ほとんどの方は参加していただけました。

それでは さっそく今日の様子をご紹介いたしましょう!

今回初めて「現地集合・現地解散」にし、今日はお隣の筑前町にある大己貴神社の駐車場に集合して頂きました。

大己貴神社の参道入り口にある歴史の里公園で説明中・・・(だって雨が降り出してしまいまして・・・)
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◆◆本日のコース説明
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◆◆熱心に聞き入るみなさん
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◆◆ストレッチ運動も大切

最初の目的地である大己貴神社

大己貴(おおなむち)神社
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ご祭神は、大国之主命(おおくにぬしのみこと)・天照大御神(あまてらすおおみかみ)・春日大明神(かすがだいみょうじん)。

仲哀天皇9年(紀元前200年)創建との伝承を持ち、日本最古級の神社と言われています。日本書紀に、仲哀天皇9年秋9月に神功皇后が諸国に命令して船舶を集め、兵卒たちを訓練しようとした時、軍卒が集まりませんでした。皇后は「きっと神の御心なのだろう。」と言って、大三輪社を建て、刀矛を奉納すると軍衆が自然と集まったと書いてあります。

神功皇后(じんぐうこうごう)、(成務40年 - 神功69年4月17日)は、仲哀天皇の皇后。
『日本書紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『古事記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。父は開化天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天日矛裔・葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)。彦坐王の4世孫、応神天皇の母であり、この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。


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◆◆神主の高(こうの)氏に説明をしていただきました
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◆◆次の目的地まで約50分テクテクテク・・・

この「約50分間のテクテクテク」の間には、上り坂が12分近く含まれています!
・・・少しだけ息切れしながら頑張って歩きました。

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松狭(まつお)八幡宮
ご祭神は神功皇后、八幡大神、住吉大神。
天徳4年(960)年8月に左大臣藤原重直が社を建立しました。本神社の祭神である神功皇后の伝承地であり、羽白熊鷲との戦いのために「松峡宮」を建て、戦に赴き、戦に勝利した皇后が「心安し」といったことにちなんでこの地方を夜須と呼ぶようになったと伝えられています。


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◆◆石段92段を登ります
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◆◆降りる時はこんな感じです
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◆◆次の目的地まで約15分テクテクテク

老松宮
1587年戦国時代末期、秋月城主 秋月種実の家臣たちが岩谷城を焼き払おうと太宰府の村々に火をつけたところ、誤って太宰府天満宮に燃え移りました。宮司たちは御神体を守り栗田に逃れその様子を種実に訴えました。種実は大変怒って火をつけた家臣やその一族を殺しました。太宰府天満宮のたたりを恐れた種は、天満宮に関係があった筑前町栗田(寺家)に社を造り、御神体を約14年間守りました。筑前の国の領主となった小早川隆景が太宰府天満宮を再建し、御神体も元に戻りました。寺家に建てられた神殿は、そのまま老松宮として祭られています。

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◆◆筑前町教育委員会 文化財係の平嶋氏(中央)に説明をしていただきました

そしてまた、雨の中を約20分テクテクテク。

五穀神社
古代、熊ケ山のあたりを官道(現在の国道)が通り、隈崎という馬継ぎの駅があったといいます。戦国時代、久光の阿弥陀ケ峰には秋月氏の出城があり、板並左京守という武将が城をあずかっていました。江戸時代の黒田長政の時、久光村は栗田村から分かれていました。産土神の五穀神社は、明和二年(1765年)、上高場村から久光村の阿弥陀ケ峰に移されたものです。文政三年(1820年)、秋月藩は、五穀神社の境内に倉を建て、飢饉に備えて米などを蓄えました。その米は七年後に1885俵になり、大風(台風)の時、村々に貸し与えられました。神社の階段下は街道の分かれ道になっています。南東の道は甘木・日田への豊後街道です。北東の山裾を縫う道は古く、弥永を通って秋月城下町に向かいます。

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約10分テクテクテクと歩いて、最終目的地へ。

仙道古墳公園
九州では珍しい「盾持武人埴輪」がほぼ完全な形で出土したことで知られる装飾古墳。たくさんの埴輪(はにわ)が周囲を囲む円墳。6世紀の装飾古墳で、横穴式石室の内部には、赤や緑色で○、◎、△などの不思議な絵が描かれています。発掘調査 後、1978年に国の史跡に指定。現在は古墳公園として整備され、レプリカの埴輪を配置するなど当時の雰囲気を再現。あずまやには石室の模型もあります。

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◆◆晴れていればこんなに美しい眺めの公園です
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◆◆石室模型
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◆◆石室にも入れていただきました!
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貴重な石室を見学させていただいてから、20分程テクテクテクと歩いて、出発地点の大己貴神社まで戻りました。

えっ?お昼ご飯はって????

・・・・・・雨のため、食べないままUターンして解散後に参加者の方達はご自宅で「美味しいおにぎり」を召し上がられたと思います。

これだけが心残り・・・です・・・。

参加者の皆さま、本日のあさくら再発見ウォークはいかがでしたでしょうか?
雨の中、参加して頂きありがとうございました。
上り坂あり、石段92段あり・・・と少しキツイ場面もありましたが(私だけ?)解散時に、楽しかったとの感想を多くいただき喜んでおります!

また突然お伺いして、今日は子どもさんの運動会だったにも関わらず、説明の時間を割いて下さった大己貴神社の高(こうの)様、これまた突然お電話したのにも関わらず、コースの説明を引き受けて下さった平嶋様、本当にありがとうございました。

それに、「隣町にウォーキングに行くのでどなたかガイドさんを紹介して下さい!!」という厚かましいお願いに、筑前町教育委員会 文化財係の平嶋様を紹介して頂きました朝倉市教育委員会文化課の川端様にも感謝しております。

へへへ・・・もしもの時は、川端サンに一般参加者として(無理やり)参加してもらい、説明をして頂こう~かという悪だくみをしていた私です。
川端サンは、地元立石の方ですから 


新たな試みでしたが、もしかして大成功???だったかもしれません。
終りよければ全て良し!!

皆さま お疲れ様でした。

お風呂から上がられたら、両足に湿布をお忘れなく


過去の再発見ウォークの様子はコチラをどうぞ。
■□2012年
■□2011年①
■□2011年②
■□2010年
■□2009年


 ◇◆朝倉市 立石コミュニティ◆◇

  〒838-0064
  福岡県朝倉市頓田205-1
  立石コミュニティセンター

■TEL・FAX  (0946)22-2101
■e-mail    tateishikou@city.asakura.lg.jp
■blog    tateishiko.exblog.jp
  
                                      
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by tateishikou | 2013-06-01 17:11 | ☆再発見ウォーク | Trackback | Comments(0)

2012 立石再発見ウォーク

6月4日(月)

梅雨の足音が聞こえてきそうなお天気が続いておりますが、みなさまお元気にお過ごしでしょうか?


先週の2日(土)に立石再発見ウォークを開催いたしました。
毎年この時期に開催する、立石地区の歴史をウォーキングしながら再発見していただきましょう!!というものです。


今回は、41名のお申し込みをいただきました。
うち、小学生の子どもたちが5名参加してくれました。

おじいちゃまやおばあちゃまと一緒に、またお友達と誘い合って申し込んでくれた子どもたちです。
次はお父さんやお母さんも誘ってあげてね

立石再発見ウォークでは、いつもお世話になっている石橋満弥氏に説明・案内をしていただきながら、堤の古道を中心に回ってきました。

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お昼は堤公民館をお借りしておにぎりをいただきました。
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◆◆食後に遊ぶ子どもたち

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猿田彦大神や宝満宮、当正寺古墳や権現谷、宗原(むねんはる)などを歩いてきました。

すっかり新しくなった道もあれば、昔の面影を残している道もありました。

普段、車で通ることはありますが、何も知らなければただの道に過ぎません。
教えていただくことで、道の様子が変わって見えてきます。

石橋氏の頭の中には、たくさんの立石の歴史が詰まっています。
それをキチンと残していこうと資料を作成されたり情報を集められたりされています。

それを教えていただく機会を設けることで、立石の歴史が次の世代に受け継がれていきます。

親から子へ、子から孫へ・・・・・。
伝えていかなければ、途絶えてしまう歴史はきっと多いはずです。

今回は、お天気の心配もされましたが、ウォーキングが終了するまで雨が降りませんでした。
井上館長、雨男ではなかったようです。

おかげさまで、無事に終了いたしました。

参加者のみなさま、お疲れ様でした。
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by tateishikou | 2012-06-04 14:01 | ☆再発見ウォーク | Trackback | Comments(0)

立石再発見ウォーク ★柿原地区編

6月6日(月)

暑い週明けになりました。
みなさま お暑うございます・・・。

さて本日は昨日の続きで、立石再発見ウォーク後編:柿原地区編です。

相窪地区から導者道を通って、柿原を目指しました。
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◆◆歩いて
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◆◆歩くいて~ひたすら 歩く・・・
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◆◆お孫さんと手をつないで

ウォーキングの時に、いつも休息場所としてお借りしている《 ぎんなんの森 》さんに到着!
ぎんなんの森サンいつもありがとうございます。
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さぁ 柿原に出発です!!
最初に訪れたのは、柿原天満宮
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★柿原天満宮とは・・・・
柿原区の氏神様である菅原道真を祀ってあります。
菅原道真(845~903)は、代々学者の家筋に生まれ、小さい頃から文才に優れ18歳で当時の国家公務員試験の下級職(進士)に、23歳で上級職(秀才)に合格し、55歳で右大臣に昇り詰めました。
ところが、道真の出世が時の権力者である藤原氏の反発をかい、大宰府へ左遷されてしまいました、
「東風吹かば にほひをこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」という都を去るときの一首は有名です。
大宰府に赴任して二年後、無念の思いを残しつつ亡くなりました。
(道真没後の三年目、門弟によって、その墓所に建てられたのが太宰府天満宮です)
学問・文筆の神としての信仰が広がったのは、江戸時代に寺子屋が盛んになった頃からです。
当時、寺子屋には必ず天神様の尊像が掲げられ、正月の初天神には保護者の学習参観が行なわれましたし、毎月25日の縁日には近くの天神様へお参りすることが恒例になっていました。このことが受験合格のご利益信仰のはしりのようです。
農業守護、病気平癒のご神徳もあるといわれています。


昼食は、柿原地区の青井区会長サンのご好意で柿原公民館を貸していただきました。

暑い中を探索され疲れて到着された参加者のみなさんは、ようやく座ってゆっくり出来る!と喜んでありました。
いつものおにぎりですが、公民館の中を気持ちの良い風が吹き、美味しくいただくことが出来ました
青井区会長サン、みなさん口々に「綺麗な公民館ね~」と褒めてありましたよ。
柿原区民の私も鼻が高いです。  ですよね 和佐野サン!

青井区会長サンありがとうございました。
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◆◆暑くてお疲れ気味のみなさま・・・

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◆◆おにぎりと冷たいお茶でリフレッシュして出発

午後は、高住神社・椀貸古墳です。

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★豊 前 坊 さ ま (高住神社)とは・・・
椀貸し古墳のすぐそばにあるお宮で、祭神は別名天忍穂耳命です。
祭神の天忍穂耳命は、天照大神の長子で、天孫降臨の主役瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の父親にあたります。
名前の中の「ホ」は稲穂のことで、「ミミ」は実をいっぱいつけて頭をたれる稲穂を表し、立派に実った大きな稲穂を称える気もちがこめられた名前だそうです。
神話によると、天照大神から最初に地上へ降臨を命じられたのは天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)だそうですが、生まれたばかりの息子の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と交代されたということです。
そのことは、生まれたばかりの赤ん坊は無垢で、霊的な世界に属する存在であり、赤ん坊には未来があり、可能性を孕んでいると言う日本古来の観念から、「天降る若々しい稲霊(いなだま)」と考えると交代の理由も納得できそうです。
農業、工業、鉱山の守護神として信仰されていますが、勝運、招福、家門繁栄、商売繁盛、就職、結婚、厄除け、病気平癒など諸願成就にも霊験あらたかだそうです。
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◆◆椀貸し古墳
★椀貸し古墳とは・・・・
柿原の原というところにある前方後円墳です。
昔、この村の人々のくらしは貧しく、お客に出すお椀やお膳さえ持っていませんでした。お客があると村人は、
洞穴(古墳)の入り口で「お椀やお膳など、○人前貸してください」と、お願いをしました。
すると当日には、その入り口の所にお願いをしたとおり、お椀やお膳などが揃えてありました。用が済むとお礼をいい、元どおりに戻しておくと、いつのまにか片付けられていました。
ある日のこと、ひとりの若者が、誰が片付けているのだろうかと木陰に隠れて見ていました。
すると、長い髪を垂らした女の人が穴から首を出し、お椀やお膳を取り込もうとしました。
見ていた若者は物陰から飛び出し、女の人に走り寄りましたが、女の人はすばやく穴の中に身を隠してしまいました。
そのことがあってからは、村人がどんなにお願いをしても、お椀やお膳を貸してくれなくなりました。




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◆◆熱心に説明を聞かれてました

この2カ所で、今回の立石再発見ウォークは終了です。
さぁ頑張って立石公民館に戻りましょう!


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◆◆お疲れ様でした




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暑い1日になりましたが、脱落する人もなく無事に終了することができました。

暑い中 説明をしていただいた石橋氏、参加者のみなさま、そして今回のウォークにご協力くださったみなさま方、本当にありがとうございました。
原野サンも写真撮影お疲れ様でした。
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by tateishikou | 2011-06-06 16:49 | ☆再発見ウォーク | Trackback | Comments(0)

立石再発見ウォーク ☆相窪地区編

6月5日(日)

雨の日曜日、みなさまいかがお過ごしでしょうか?

昨日の土曜日に、立石地区健康づくり推進委員会・立石公民館 主催
《 立石再発見ウォーク 》を行い45名のみなさんと、
相窪地区~柿原地区を回りました。

今日はその前編:相窪地区コースをご紹介いたします。

説明は、Mr.立石再発見 立石公民館長の石橋満弥氏にお願いしました。
豊富な知識と資料をお持ちですので、本当に勉強になります!

今回のコースは約6.5km
公民館  橋本家 相窪灌水池 天(田)神社  鬼松天神  導者道を通って 新池の跡  ぎんなんの森(休憩)  柿原天満宮 柿原公民館(昼食) 椀貸し古墳、高住神社 公民館

  

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◆◆健康づくり推進委員会会長でもある柴山館長からの説明


まずは、今回通る予定の“ 導者道(どうじゃみち) ”の説明を兼ねて、立石公民館から見える英彦山を・・・という予定でしたが、あいにく雲に覆われて英彦山が見えませんでした・・・。
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◆◆英彦山が見えない・・・

えっ? その前に導者道が何かがわからない???

★導者道とは・・
英彦山詣りの人を「彦山導者」といい、通っていた道を導彦道と呼んでいました。「どうじゃみち」が正しいのでしょうが、朝倉地方では「どじゃみち」とか「どしゃみち」と言っていました。

~石橋氏 資料より~


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◆◆英彦山ガラガラを手に説明中の石橋氏


☆英彦山ガラガラとは・・・
神の宿る崇高な山として、今だ多くの人々が訪れる修験道の地・英彦山。添田町で生まれた「英彦山がらがら」は、国内で最古の土鈴と言われています。文武天皇(飛鳥時代)が英彦山に奉納した鈴が由来とされ、戦乱の際に守るために土に埋めた鈴の複製を、肥前中原の城主が作り、のちに参拝者に分けたのがはじまりだとされています。現在では、英彦山来訪のお土産として広く知られていますが、家の玄関や門前に飾られる魔よけや田畑の水口(みなくち)に埋め、災害を避けるためのお守りとして現代に受け継がれています。


さぁ出発!
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橋本邸を目指します。
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橋本家は、江戸時代までの庄屋さんでした。
筑前竹槍一揆の際に出来た、竹槍の跡が残されているお家を見せていただきました。
そして、相窪地区の橋本家は相窪地区のみならず、立石地区の発展に大きく貢献された橋本 郁太郎氏の話を外すことは出来ません。
朝倉市HPふるさと人物誌でも紹介されていますので、是非ご覧ください。

お邪魔した橋本家の橋本菊枝氏から橋本郁太郎氏に関する貴重な資料を多数提供していただきました。
それを石橋満弥氏が編集された今回の立石再発見ウォークの資料は、立石地区の人達に是非知ってもらいたい、そしてこれから先に残してもらいたい大切な資料になりました。

橋本郁太郎氏の記念碑は、立石村役場(現:西日本警備)から元の立石公民館(現:朝倉医師会看護学校西門付近)に移設され、公民館移転に伴い生家に再建されました。
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橋本郁太郎氏の略歴や記念碑の碑文など詳しく説明をしていただいて、次は相窪の潅水機へ。
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◆◆相窪潅水機
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以下 資料は全て石橋満弥氏提供のものです

★相窪の潅水機とは・・・ 
相窪の土地は佐田川の川底よりも高く、水は伏流水となって地下を流れるため、明治30年(1900)ごろまでは粟や大豆、サトウキビ、タバコが主な作物でした。
国道386号線の北側も南側も殆どが櫨(はぜ)畑か草きり場、または荒地か林で、田は3ha位しかなく、用水は三奈木の長畑(ちょうばたけ)の落とし水と、新池と呼ばれた小さな池の少量の水に頼っていましたので、米飯は祭りと正月だけで、ふだんは粟のボロボロ飯か麦飯というくらしでした。
明治36年の大干ばつの時は田ごとに井戸を掘り、ハネ釣瓶(はねつるべ)で何日も何日も水をかけましたが稲を枯らしてしまいました。
「米がとれる田が欲しい」これが相窪の人たちの願いでした。
皆で相談をしたり、いろいろな作業もしたりしましたが、何一つ成功しませんでした。
しかし、あるとき相窪で火災があり、井戸に手押しポンプをつけて消火にあたりました。ところが水は枯れることなく次々と水が出てきました。
「相窪の地下には水がたくさんあるに違いない」と気づいた村長の橋本郁太郎氏は、地下水を利用する方法はないものかと考えました。
アメリカ帰りの弟・義夫氏(工学博士)に相談し、発動機を用いて揚水したらどうかということになりまた。
当時、発動機を見たものはなく、義夫氏が設計し、博多で造らせました。
相窪の老いも若きも、男も女も一生懸命がんばりました。発動機の土台となる煉瓦は牛に車力を引かせ、何度も久留米の宮の陣から運びました。
いよいよ完成の日、相窪の人たちが固唾をのんで見守る中、発動機の大きな音(安川橋まで聞こえたという)とともに、勢いよく水が噴出し、水路を流れる様を見て、人々はみな歓声を上げ感動のあまり涙ぐむものさえいたということです。        
完成後、相窪は機械で水を揚げ田にひいているそうだという話が広がり、見学者が絶えなかったということです。


次は、天(田)神社へ。
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★天(田)神社(「てん」あるいは「でん」)とは・・・
相窪の氏神様である『埴安(はにやす)の神』を祀ってあります。
『埴(はに)』とは、神聖な力をもったキメの細かい黄色がかった赤色の粘土のことで、『埴安(はにやす)の神』とは、祭事に用いる陶器つくる材料としての神聖な土の神様のことです。
太陽や月や地球ができ始めたころ、高天原(たかまがはら)に様々な神様があらわれました。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)という神様もいました。
二人は国を造り、次々と子どもを生みました。
最後に火の神様『火之迦具土(ひのかぐつちの)神』を生み、大やけどを負い、病に伏しているとき、その尿から『波邇夜須毘古神(はにやすびこのかみ)』と『波邇夜須毘売(はにやすびめの)神』が生まれたと古事記に記されています。
また、日本書紀には伊弉冉尊(いざなみのみこと)が亡くなろうとする時、土神埴山姫(はにやまひめの)神と水神弥都波能売(みずはのめの)神を生みました。
この神の頭上に桑と蚕、へその中に五穀が生じたと記されています。
土と水、さらに火を加えて祀りに使う土器がつくられ、その土器を用いてこそ豊かな実りがあると信仰されていた時代、神聖な土『埴(はに)』には呪力(じゅりょく)があると考えられ、特に大和(やまと)の国(奈良県)の香具山(かぐやま)の埴(はに)は、[国魂(くにみたま)(国土を経営する神様)]がこもる土、[物実(ものざね)(もののもととなるもの/野菜や草木の種の意味)]と信仰されていました。
神武天皇が大和を平定する折、二人の付き人が敵中から具山(かぐやま)の埴(はに)を持ち帰り、土器を焼き、天神地神(てんじんちじん)を祭り、勝利を得たと日本書紀にあります。
また『埴安(はにやす)の神』は田の畔(あぜ)や川の土手などに守護神として祀られました。
このことから単に土の神というだけでなく、作物の実りをもたらす神でもあるといわれています。
そのためこの神様は、登由宇気(とようけの)神と一緒に祀られていることが多いそうです。
他に、鎮火(ひしずめ)の神としての霊力があるともいわれています。


続いて鬼松天神

★鬼松天神とは・・・
昔、豊後の国の日田に鬼大夫(おにたいふ)大蔵永季(おおくらながすえ)という武芸に優れた上に、たいそう力の強い人がいました。
京都の御所で開かれる天覧相撲に出場することになった鬼大夫(おにたいふ)は、筑紫路を通って大宰府天満宮で必勝祈願をしようと思い、大根川(佐田川)のほとりにやってきたとき美しい品のある娘が大根を洗っているのに出会いました。
鬼大夫は娘に大根を所望し、受け取る時に、娘の手を握ろうとしました。
その途端、娘は鬼大夫(おにたいふ)の腕をねじ上げてしまいました。
その力の強いこと、力自慢の鬼大夫でもどうすることもできませんでした。
娘は、「天覧相撲に出る身であり、天満宮にお参りに行く身でありながら、何というはしたないことをするのですか」と諭し、立ち去ってしまいました。
「強いばかりが相撲の道ではない。全ての邪念に打ち勝つことだ」と悟った鬼大夫は、大宰府に着くと身を清め、一心に祈り続けました。
満願の夜、鬼大夫(おにたいふ)の枕元に天神様が現れ、 「そなたの相手は出雲の国の小冠者(こかんじゃ)というものだ。全身が鉄の様な男で、まともにぶつかればどのような者でも負けてしまう。しかし、小冠者(こかんじゃ)には弱点が一ヶ所ある。そこを狙えば勝つことができるであろう」と、お告げになりました。
その後には大根川で出会った娘によく似た神様が額の三寸四方を指していました。
いよいよ天覧相撲の日、出雲の小冠者(こかんじゃ)との対戦となりましたが、鬼大夫はお告げのとおり額の三寸四方をめがけて一突あびせました。
さすがに鉄のような身体の持ち主も弱点を突かれ、その場で倒れてしまいました。
人々は鬼大夫の強さに驚き、相撲の名人と称えました。
相撲に勝つことができたのは、天神様のおかげと感謝し、相窪の地にお社を建てて天神様をまつり、松の木を一本植えました。
このお社と松は、応永年間(室町時代の前半1392~1428)に兵火に遭い焼けました。
現在のものは再建されたものです。


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◆◆しばし休憩・・
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次は導者道を通って新池の跡を経由して柿原方面へ向かいましたが続きは明日のお楽しみ



今回の立石再発見ウォークの写真は、立石コミュニティ協議会の原野さんに撮っていただいております。
ありがとうございました 
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by tateishikou | 2011-06-05 11:29 | ☆再発見ウォーク | Trackback | Comments(0)

立石再発見ウォーク

6月5日(土)

今日は【 立石再発見ウォーク 】を開催いたしました。
参加者は、52名。
お孫さんを連れて参加された方もありました。

今回は、『“一木児童遭難顛末記”を訪ねて』ということで、●頓田の森 ●大添橋 ●生徒隊跡
●一ツ木神社 ●陸軍病院跡
 のコースを回りました。
途中 頓田の御宮こと乙姫宮にも立ち寄りました。

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◆◆元気に出発

今日説明をお願いしたのは、立石公民館長の石橋 満弥氏立石地区社会福祉協議会会長の窪山 強一氏
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◆◆石橋館長

石橋氏は、以前から立石の言い伝えや地域史を詳しく調べられて書き留めてあり、資料を提供していただくだけではなく、ちょくちょく説明をお願いしております。(地域史講座の講師も・・・。)
窪山 強一氏は、頓田の森に逃げ込んだ当時2年生の児童でもあり、戦災学童の遺族代表もされています。


●乙姫宮●
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 頓田の氏神様である豊玉姫命(とよたまひめのみこと)を祀っています。
 豊玉姫命(とやたまひめのみこと)は、海幸・山幸神話に出てきます。海神(わだつみのかみ)の宮にやってきた、山幸彦(火遠理命〔ほおりのみこと=ヒコホホデミノミコト〕)と出会い、子どもを宿しますが、出産のようすを山幸彦に見られ実家へ帰ってしまいました。堤や一木の宝満宮に祀られている玉依姫命(たまよりひめのみこと)の姉さんにあたります。
 祭神は豊玉姫命なのに、なぜ乙姫宮なのでしょうか。これは昔話に出てくる浦島太郎が亀を助けて、竜宮宮で美しい乙姫様にたいへんなもてなしを受けたというストリーと殆(ほとん)ど同じであることから、豊玉姫命と乙姫様とイメージが重なっても不思議ではないという説からではないかといわれています。
火の神の代表的な神が迦具土神、即ち『愛宕神』で、火難除け、郷土守護の神様として霊験があると崇められています。
 昔々、人間は火山や落雷による山火事などから、自然の脅威として火を意識していました。やがて長い年月の間に、火の力をコントロールできるようになり、火を文化的な生活を営む便利なエネルギーとして利用するようになりました。ふだん火の神は生活を守り、豊かなくらしを与えてくれますが、一旦、けがすようなことをして怒らせると、荒れ狂い、屋財家はもちろん生命さえも焼きつくし、奪い取ってしまうことから、火の神を大切に祀ってきたのです。明治45年の地図を見ると、頓田には桑畑が多く、水利が悪かったことがわかります。このことからも頓田の人々が愛宕神を大切にしてきたかがわかります。

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●頓田の森●
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 昭和20年(1945)3月27日、立石国民学校の初等科1~5年生と高等科1年生の修業式が始まって間もなく、アメリカ空軍のB29の大編隊が太刀洗空襲に飛来しました。児童たちは地方担任の指示に従って集団下校を始めました。一木の児童たちが大添橋(通称:ドンドン橋)にさしかかったとき、太刀洗の空襲が始まりました。この先に生徒隊もある。そばには陸軍病院もある。このまま一木へ向かっては危険であると判断した担任の指示にしたがって、頓田の森に引き返しました。先頭の子どもたちが頓田の森にたどり着くやいなや、そこに爆弾が落ち、24名の子が即死、怪我をして病院で死亡した子が7名、計31名の子が亡くなりました。
 当時の様子など詳しいことは一木児童遭難顛末記(編集 矢野 毅)、立石再発見第10号(立石公民館)、誤爆の森(古賀昭二著)、悲しきおじぞうさん(入江幸子著)、しいの木はよみがえった(飯田よしひこ/著) 別府ひろみ/絵)夢奪われし子ら(高山八郎著) 小さな森のレクイエム(KBCラジオ放送録音テープ)等を参照。             

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◆◆窪山 強一氏
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頓田の森平和花園の近くには、当時の爆撃のあとが残っています。
今でも頓田の悲劇を物語る貴重なもの。
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◆◆壁にあいている無数の穴は、爆弾の破片が当った跡


●大添橋(ドンドン橋)●
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●生徒隊跡●
 昭和13年に、JA筑前あさくら農業協同組合中央支店やAコープ甘木、消防署の一帯に、太刀洗飛行場を守るための高射砲第4連隊が置かれましたが、その後、昭和15年に金川道の所まで土地を拡張して、飛行機の操縦士を養成する学校 即ち、太刀洗陸軍飛行学校、生徒隊ができました。そこでは二枚翼の練習機(赤トンボともイングマン)が発着訓練をしていました。
 戦後、敷地の大部分は、県立朝倉中学校(現・県立朝倉高校)生徒の手で開墾されましたが、建物はアメリカ進駐軍の兵舎になりました。来春の故久保山与市さんは、「戦後の薄暗い電気の下で、貧しく、苦しい生活をしていた私たちは、明々と電気をつけてダンスをしたり、歌を唄ったりしているアメリカ兵が羨ましかった」と語ってありました。
 昭和22年(1947)学制改革によって新制中学校ができ、兵舎を利用して立石・馬田・甘木の各小学校区の子どもが通う甘木中学校ができました。


●一ツ木神社●
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 一木の氏神様で祭神は「玉依姫命(たまよりひめみこと)」です。
玉依(たまより)とは霊憑(たまより)からきたもので、神霊(しんれい)が寄り憑くという意味で民俗学者の柳田國男氏は、各地に玉依姫(たまよりひめ)の名を持つ女神が祀られていることから、神霊が依りつく女(神に仕える巫女)のことだと解釈しています。
 山幸・海幸神話に登場する玉依姫命(たまよりひめのみこと)は、美しい海神海津見神(わだつみのかみ)の娘です。姉は豊玉姫命(とよたまひめのみこと)です。やがて、その子が成人すると、その妻となって四人の子をもうけます。第四子が神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)で、初代の天皇といわれる神武天皇です。養母、母としての玉依姫命(たまよりひめのみこと)の姿は、子孫繁栄のシンボルとして意味を感じることができます。子宝、安産守護、豊作、商売繁盛、開運、悪病・災難よけなど幅広い御神徳があるといわれています。

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◆◆延命地蔵尊
 一木宝満宮の境内の地蔵尊は、昭和20年3月27日、頓田の森で亡くなった31名と、その後の空襲でなくなった1名の32名の幼い霊の冥福を祈るために、同年11月2日、遺族の拠出金で建立されたものです。台座の中には、児童たちの血を吸った頓田の森の土が埋め込まれています。(神社前の道路拡張のために現在の位置に移されました)
建立の場所については、頓田の森にしようかという意見もありましたが、頓田の森は、子どもたちが帰りたがっていた『一木』から離れ過ぎているという理由で、子どもたちの遊び場であった村の鎮守の境内に決められました。
 地蔵尊の傍らに立つ、由来記の一節に“一瞬にしてわが子を失った親の悲しみとせつなさは、やがて平和を願い、亡き子の冥福を祈る親心の現れとして、この地蔵尊の建立となった”と、あります。
 昭和26年の7回忌に、地蔵尊の両側に一対の石灯籠が建てられました。これには児童が遭難した当時の引率教師など12名の教師の名が刻まれており、追悼のことばの末尾に、“ささやかな石灯籠ではあるが、この中には私たち当直職員の皆さんへの限りない追慕と慰霊の誠)が込められている。これによって幾分でもご遺族の方々への慰めともなり、またみなさんのご冥福を祈る私たちの微意を汲んでいただけたら、これに過ぎる私たちの喜びはありません。どうぞ、在天の幼い三十二の御霊よ、来たって享けられよ。合掌”と、あります。(一木児童遭難顛末記参照)


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●陸軍病院跡●
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◆◆現:朝倉医師会病院
 大正8年、朝倉郡筑前町原地蔵に陸軍飛行第4連隊の本部(現・特別養護老人ホーム 朝倉苑)が置かれ、そこに太刀洗陸軍病院が建てられました(建設年はわかりません)が、飛行場の拡張にともなって、昭和15年に来春に移転してきました。
 戦後、国立太刀洗病院となり、昭和29年(1954)県立朝倉病院に、さらに平成17年(2005)甘木朝倉医師会立朝倉病院となりました。
昭和20年3月27日、頓田の森で被爆した子どもを運んだ病院の一つです。
平成20年3月、三奈木地区にあった甘木朝倉医師会病院も統合し、名称も朝倉医師会病院とし、再スタートしました。


頓田の森で起こった事は、遠くない昔に身近で起きた悲しい出来事です。しかし決して忘れてはならない、そして次の世代に語り継いでいかなければならない出来事でもあります。

何年経っても、御遺族の方達にとっては悲しみが薄れる事はないでしょうが、亡くなった子ども達のことを忘れずに語り継いでいくことが、ここ立石地区に住む私たちの役割の一つではないかと思います。


みなさんいろいろな思いを胸に回られていました。
暑い中お疲れ様でした。

※各場所の説明につきましては、甘木市教育委員会発行 「わたしたちの甘木」と以前から立石公民館から発行しておりました【立石再発見】を書かれていた前公民館長 石橋 満弥氏 編集“「たていし」の伝承とマップ”からご紹介しています。
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by tateishikou | 2010-06-05 16:25 | ☆再発見ウォーク | Trackback | Comments(0)

立石再発見ウォーク

6月6日(土)に【立石再発見ウォーク】を開催しました。

明け方 雷を伴う強い雨が降り、心配しておりましたが、集合時間の9時にはなんとか
(時折、小雨が降ったり止んだりしておりましたが)出発する頃には雨もあがり、
44名の参加者の皆さんは元気に出発!
お孫さんを連れて参加して下さっている方もあり、小学生も7人来てくれました。
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今回は、
立石公民館 出発⇒ ①立石神社 ⇒ ②宝満宮 ⇒ ③当正寺古墳 
⇒ ④権現様 ⇒ ⑤大岩古墳群 ⇒ ⑥柿原ひょうたん池

の全工程 約6km。


甘木市教育委員会発行 「わたしたちの甘木」と以前から公民館から発行しておりました
【立石再発見】を書かれていた 前公民館長 石橋 満弥氏 編集“「たていし」の伝承とマップ”
から少しご紹介をしてみましょう。

◇ ①立石神社 ◇
昔、堤の里に 裕福で信仰の篤い老人がいました。
ある日 夢の中に権現様が現れ、「礼拝橋の橋石(きょうせき)は、霊石である。踏んで渡るのは、もったいない。おまつりして崇めなさい。」というお告げがありました。
老人は、里人たちとも諮って、祠(ほこら)を建てて橋石(きょうせき)をまつり、「立石権現(たていしごんげん)」と呼び、手厚く崇めました。

※礼拝橋 (らいはいばし)
805年、桓武天皇の時代のことだそうです。伝教大使が、唐の国(中国)で学問を修め、帰国の途中に嵐に会い、船が転覆しそうになった時、
「日本に無事に帰りつくことが出来ましたら、七仏薬師(しちぶつやくし)を彫刻いたします。」と
お祈りになりました。
まもなく風も波も収まり、無事に帰国することが出来ました。
上陸された大師は、約束を果たそうと仏薬師を彫る良い木はないかと、あちこちお歩きになりました。すると下座(げざ)と夜須の境の近くに、清らかな小川があり、石の橋がかかっており、何気なく渡ろうとされたとき、空を仰がれると北のほうに紫の雲がたなびきました。
(紫の雲がたなびいていた山は、古処山という説と英彦山という説があります)
『きっと あそこに仏薬師を彫る霊木があるにちがいない。』と思われ、一歩三礼されました。村人たちは、大師が一歩三礼された橋を『礼拝橋(らいはいばし)』と名づけ、この里あたりを、『礼拝村』と呼びました。らいはい村が来春(らいは)村になったと言われています。

◇ ②宝満宮(ほうまんぐう) ◇
堤区の氏神様である玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)を祀ってあります。
「玉依」とは、霊憑(タマヨリ)からきたもので、神霊が寄りつくという意味で、民俗学者の柳田國男先生は、各地にタマヨリヒメの名を持つ女神が祀られていることから、神霊が依りつく女(神に仕える巫女)のことだと解釈しています。
山幸・海幸神話に登場する玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)は、美しい海神海津見神(ワダツミノカミ)の娘です。

拝殿のすぐ裏に古墳があり『おおとさだのしんさまの塚』略して『おうとさま』と呼んでいます。
ある日、若者たちがこの塚を暴き、剣を振り回し、土器を投げたりして戯れました。
たまたま、堤の里に悪い病気が流行していたので、これは、『おうとさま』の祟りであろうということになり、宝満宮の裏に祠を建てて崇めました。するとたちまち病気は下火になりました。その後は、『おうとさま』に祈ると、いろいろな病気が治り、特に不思議とイボが取れるという風評が広がりました。お礼に九石を上げるという俗信があるので、祠の後方には、丸い石がうずたかく積まれています。

◇ ③当正寺古墳(とうしょうじこふん) ◇
うらうめデイケァセンターと宝満宮の中間にあり、こんもりと土を盛った見事な前方後円墳です。造られたのは5世紀半ばと推定されます。墳長(ふんちょう)約70メートル、埋葬部は前方部と後方部に1ヶ所ずつあり、両方とも竪穴石室(たてあなせきしつ)で、墳丘部(ふんきゅうぶ)からは円筒埴輪や形象埴輪(盾や家、船)が、石室付近からは鉄剣や甲などの武具が発掘されています。畿内的(きないてき)な様相が強く見られまる古墳で、若草の芽が吹く春が、一番きれいに見えます。

◇ ④大岩古墳 ◇
汚泥処理センターの下、B&Gの上の朝倉市グラウンド・ゴルフ場内にあります。
古墳時代後期のものであり、銅釧(ドウセン・・銅の腕輪)、鐶(カン・・指輪)、勾玉(マガタマ)、水晶の切子玉、水晶の算盤玉(そろばんだま)、碧玉の管玉(かんだま)、臼玉(うすたま)、鉄製直刀、刀子(とうす)、鉄鏃(テツゾク・・鉄のやじり)、鉄斧、馬具轡、須恵器の杯、蓋付坩(フタツキカン・ふたのつきの壷)、土師器(どじき)模瓶などなどが出土しました。周囲には約60基の古墳がありますが、この古墳のように石室が大きいものは他にありません。

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興味がある方は、是非一度お越しください。
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by tateishikou | 2009-06-08 15:16 | ☆再発見ウォーク | Trackback | Comments(2)

朝倉市 立石コミュニティ      毎日のドタバタ日記


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